言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

韓国訪問

2012年08月15日 22時52分27秒 | 日記・エッセイ・コラム

 帰国の日に、竹島に李大統領が行つた。韓国にゐる間に、その報に接することがなくてよかつたと思つた。何とも不快な事件である。そして、陛下への礼を失する発言、あるいは今日の光復節での発言、どうかしてゐる、としか言ひやうがない。

 韓国は、二年ぶりであつた。想像以上に暑かつた。韓国語をもう一度習ひ直しての訪問で、自分でも以前よりは話せるなといふことを感じてうれしかつた。また、今は文字で友人とやりとりするモバイル活用時代だから、話せるだけでなく書けるやうにもなつてゐたのも収穫であつた。

 街は、どんどん発展してゐる。蚕室(チャムシル)で人に会ふことになつたので、オリンピックの時の様子ともさらに一変し、ロッテはなんと123階のビルを建て始めてゐた。明洞(ミョンドン)も相変はらずのにぎはひだが、ロッテ百貨店本店12階にあつた韓定食の店がなくなつてゐたのは残念だつた。あれはおいしかつたのに。

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ソウルの中央郵便局。韓国の友人はマジンガーZに似てゐませんかと言つてゐた。

 宿泊は、清涼里(チョンニャンニ)の安宿だつた。昨年改装したとHISの方に聞いたので頼んでみたが、値段通りであつた。天井の紙ははがれてゐるし、フロントの女の子は、なんだか知らない人と喧嘩してゐた。初日の男の人はとても親切だつたから、ホテルの責任といふよりその人の責任である。

 そのチョンニャンニがこれまたずゐぶんと変はつてゐた。かつて私が大学に通つてゐた頃の様子とあまりに違つてゐたので驚いた。じつに24年ぶりだから(その年はソウルオリンピックの時だつた)、当たり前と言へばそれまでだが。

 街は変はつたが、ホスピタリティはあまり変はつてゐなかつた。道を訊いて正確には教へてくれないし(彼らは「知らない」と言ふことは失礼だと考へるらしい。だから嘘でも何かを教へてくれる)、買ふ気がないと分かると急に不機嫌になる。あるいは、今回一番傑作だつたのが「??? ???(一生懸命やつてゐるのに、買つてくれないんですか)」といふ言葉である。一生懸命やることと、購入することとは何の関係もないだらうにと感じて失礼ながら爆笑してしまつた。こんなことを話す定員はたぶん日本にはゐないだらう。

 ただ、親切心の深さを感じるのも韓国ならではである。ホテルに行くとき、駅の案内所では「歩いて一時間かかる。バスでも20分ぐらゐ」と言はれたので、タクシーに乗つた。ホテルの名前を言つても運転手は分からないと言ふので、英語で書かれた住所を渡したら、「すみません。私は英語が分からないので」と何度も何度も謝つて来られた。電話番号を伝へると、電話をしてくれて了解したらしい。車を走らせると何と5分で着いた。分かつて見れば徒歩10分であつた。降りるときも「英語が読めなくてすみません」と連呼してゐた。こちらが恐縮するほどであつた。

 留学時代にも、ロッテホテル前を歩いてゐたら、ある老人が「あなたは日本人か」と話しかけてきて「時間があればコーヒーでも」といふことでラウンジに行つた。何を話したかは覚えてゐないが、じつに気持ちのいい会話をした記憶がある。飲んだこともなかつた泡立ちコーヒーを、異国の超一流ホテルのラウンジで、知らない人に頂戴する。不思議な体験であつた。見るからに貧乏くさい学生を見て、かはいさうに思つたのであらうか。さういふことがあるのが韓国である。あの御老人は、本当に人であつたのだらうか。

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ロッテホテルのラウンジから見える庭

 外国に、青春時代の悲しみを噛みしめた場所があるといふことは、とても貴重なことだと思つてゐる。様相は一変してしまつたが、その場に行くとすつとあの頃のことが思ひ出される。

 韓国は、懐かしい国である。

コメント
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