言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

東日本大震災から一年

2012年03月11日 10時18分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 あの日から一年が經ちました。改めて亡くなられた方の御冥福を祈り、被害に遭はれた方に御見舞を申上げます。

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   「我欲にとらはれた現代人への警告である」と、震災にたいして、この人からは決して言はれたくない石原愼太郎氏に言はれてしまつたといふのが、皮肉でした。その人も芥川賞の銓衡委員を辭め、再び國政への復歸を目指してゐる。それが我欲ではなく公憤によるものだとは本人の辨ですが、さて人はほんたうにさう思ふでせうか。

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   昨日の朝日新聞に作家の阿部和重氏が「言葉もまた壞された」といふ長文を寄稿してゐましたが、かういふ大雜把な文章が「言葉を破壞」してゐるのでせう。言葉は破壞されるはずはありません。破壞してゐるのは、それぞれが言葉を使ふ場面で起きるのであり、正確には「その人の言葉は破壞されてゐる」といふことでしかありません。震災で言葉が破壞されるはずもなく、作家阿部某の言葉は壞されてゐる、あるいは政治家某の言葉は壞されてゐるといふ言ひ方をすべきです。その意味では、阿部氏が引用した谷川俊太郎氏の「言葉は壞れなかつた」の言葉の方が正しい。

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 この寄稿と同じ欄で前日に載せられてゐたのは劇作家の山崎正和氏のインタビューでしたが、これもひどいものでした。「震災後に見せた日本人の對應は、日本人の國際性、文化主義、平和主義などの戰後民主主義の精神が現在の日本人に血肉化したものだ」と述べてゐましたが、それは戰後民主主義の精神などであるはずはありません。そもそも戰後民主主義に「精神」があるとも思へません。精神を削ぎ落としたのが戰後民主主義だからです。震災後に日本人が見せたのは、日本人古來の傳統的精神に決まつてゐるではありませんか。そんなことも分からないほど、山崎氏の目は曇つてしまつてゐました。この人の「言葉も破壞されてゐる」といふことなのでせう。

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 私たちは、このたびの震災によつて、 何かに氣附かなければならないのは本當のことでせう。が、そのことに氣附いてゐる發言が、新聞に載るとは思へません。戰前に戰意昂揚を扇つてゐながら戰後は平和主義を稱揚するといふアクロバチックをやつてのけた新聞に、時代の變化を掴む眼力などあるはずもありません。彼等は附和雷同、時の權力を補完するのに長けてゐるといふのが眞實のところです。ですから、ちなみに私は「教育に新聞を(NIE)」などといふことにも反對です。新聞は何をしてきたのか(どんな罪を背負つてゐるのか)。それを教へることにおいてのみ、教育において新聞を扱ふ意味があると考へます。

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   震災から一年、日本人の一人として思ふことは以上のことです。

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