言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「いがらしみきお」とは何者か

2011年06月08日 06時28分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに朝日新聞らしい駄文を讀んだ。政治面の記事はあまり關心がないので讀まないから、それらを讀む人には「久しぶり」なわけはないと御叱りを受けるかも知れない。しかし、そんなことはどうでも良いことで、今囘の文章の酷さは私には常軌を逸してゐるやうに思はれた。

   その記事とは何か。

  文化面に載つてゐた漫畫家の「いがらしみきお」といふ人のエッセイである。だいたい名前をひらがなで書く人に眞實味のある人はゐない。「さねとうけいしゅう」「うめざおただお」など言葉を道具としか考へてゐないからさういふことができるわけである。

   タイトルは、「許して前を向く日本人――大震災で見た『神樣のない宗教』」といふもの。これがなかなか要約しづらい。そもそも論旨が一貫してゐるのかどうかも分らない。確かに日本語で書かれてはゐる。しかし、どうにも内容を掴むことが困難なのである。見出しをつけた整理部の記者には、拍手を送りたい。

  冒頭から、自分の作品にたいして「デタラメなヨタ話」と言ふのだから、この人は謙遜と作品の價値といふものを混同してゐるのを感じた。最終話の話題は本來考へ拔かれたものであらうに、それを安易に「ヨタ話」といふのはいかがなものか。

   さうした創造者の意圖や苦心といふものをいとも簡單に切り捨ててしまふ發想が、後段の大震災についての感想を生んだのである。いがらしは、テレビで見た大震災の樣子を「まさに『神樣』などいない無慈悲な光景」と譬喩してゐる。なるほど、「神も佛もあるものか」といふ俗言があるやうに、あまりにも悲慘な光景を無慈悲と捉へることに違和感はない(もちろん、私は創造者の意圖や苦心を信じるから、大震災の光景に別の感想を抱くが、今囘はそれは省く)。そこで終りといふのなら一貫してゐる。

  しかし、いがらしは、さうではない。助け合ひ、慰め合ひする人人が「まるで信仰のように人を信じている」「神樣のない宗教がそこにあった」と書いてゐるのだ。神樣のゐないといふ譬喩が、一つ前の段落では「無慈悲な光景」に使はれ、こちらでは「神樣ではなく人を信じてゐる光景」に使はれてゐる。まつたく意味が分らない。しかもである。「人を信じることが出來ないので、自分はどこから來てどこへ行くのか、この世界はいったいなんなのか、なぜ生まれたのか、そんなことを考えて來た」と言ふから、?が幾つも浮ぶのだ。この「ので」とは何なのか?

  そのあと、「人を信じる」ことから「人を許す」ことへとつながり、原爆を落とした國を許したやうに、許すことでしか前を向けない民族なのだと宣ふ(この「許す」といふ漢字の使ひ方はどうであらうか。文脈からいつてこの場合には「赦す」が適切である)。この人には、アジアの國々を攻めた大東亞戰爭のことはかけらもないのであらう。それどころか、「私」が人を赦す前にどれだけ多くの人に赦されてゐる存在であるかといふ感覺がないのである。最初に見せた謙遜の感情も結局はその裏にべつとりと傲慢の感情がついてゐるといふことが、この短い文章ですでに明らかになつてしまつてゐるのである。

  最後の言葉がふるつてゐる。「今度は神樣を許すことになるとしても」である。大震災は、神樣の仕業とでも言ひたいのであらう。そして、日本人は許して前を向く民族だから、その神樣を許して前に向つて行くといふのだ。愚かの上にも愚かである。神樣も人も信じてゐない人が、日本人は他者を許して前に向つて行く民族であると分析し、これからは神樣を許して前に向つて行くだらうと述べる。こんなふざけた主張があり得るか。信じてゐないものを分析し、信じてゐないものの今後を預言する。そこには何の愛情もない。自分の思ひつきだけで日本人が語られ、日本の現状が分析され、自然災害が神樣のゆゑであるといふトンチンカンな妄想が示される。これほどに傲慢で、不遜で、忌まわしくて、いかがはしい主張は滅多にあるものではなからう。まれにみる惡文である。

  朝日新聞を購讀されてゐる方は一度讀んで感想を御聞かせ願ひたい。平成23年6月7日の朝刊(關西版)である。

コメント (4)
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