言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語 番外篇8

2009年02月03日 20時37分42秒 | 福田恆存

「理念が理念たり得るためには、その理念が自己を否定してでも貫くべきものであるといふことが必要になります。例へば、『社會貢獻』がその企業の理念だとして、自分の會社の製品にもし重大な缺陷が見附かれば、自社をつぶしてもよいと言へるほどに煮詰められたものであれば理念と言つても良いでせうが、所詮金儲けにすぎない企業がそれを隱すために『社會貢獻』などと言つて自己欺瞞を平氣で出來るのは、そのこと自身が企業における理念の脆弱さを證明してゐます。それが實情ではないでせうか」と。

「白い戀人」やら「赤福」やら「吉兆」やらが問題になる前の話である。「社會貢獻」などといふ美名をかざしてできることは、寄附や冠講座、最近なら學生のインターンシップ程度のことであらう。そんなものは、景氣が惡くなればすぐに止めてしまふ(これを書いたのは一年前だが、今の不正規勞働者の解雇の問題を考へるとなほさらその思ひは強くなる)。そのことを指して「理念」といふのであれば、それは「理念」といふ言葉の誤用である(經營者が責任を取つて辭任するか、それができずばまづは自身の報酬をカットしてから勞働者の首を切るといふのが、彼等がこれまで誇らしげに語つてゐた「日本的經營」ではないのか。「社會貢獻」などといふことを言ふのなら、まづは會社に貢獻して然るべきである)。

ここまで言つても、その知人は理解を示さなかつた。「どう言はれようと理念は必要だ」と言ふのだ。まつたく言葉が通じなかつた。私も理念は必要だと思つてゐるが、その「理念」の意味を曖昧にしたままで、「理念が必要だ」と言つても事態は改善しないといふことを言つてゐるのに、まつたく通じないのである。この壁がまさしく近代知識人に共通する壁であらう。

「私たちはもう少し自分の身についた言葉で喋るやうになれないものか」――かういふ問題意識から、私はこの連載を始めたと先にも書いた。しかし、それはいつかうに變はる氣配を見せない。もちろん、私は變へようといふ意志と意圖とを持つて書き始めたのではない。一握りの人でも假名遣ひに關心を寄せる人が生まれ、國語の正統性とは何かに思ひを寄せて下さる人が出てくれば良い。もとより、私は人人を説得するだけの國語學の知識も、讀ませるだけの文章を書く力量もない。謙遜してゐるのではない。多くの人から「分りにくい」といふ御批判をいただいた。それゆゑに、これほど長く連載を續けさせてくださつた編輯部の御厚意には深く感謝してゐる(この文章はそもそも新聞連載されたものである)。また、教へ子の一人が最近歴史的假名遣ひを使ひ始めたことは、嬉しいことであつた(またブログに載せるやうになつてからは、これを讀まれた保護者の方の手紙が歴史的假名遣ひになられたのも、まことに喜びの一事であつた)。連載を終へるに當つての最高のお襃めを頂戴したやうである。

   宣長は、診療を續けながらその一方で文章を書き續けた。この連載は、所詮その眞似事にすぎまいが、眞似事をしようと努力はしてきたつもりである。先人の道を迷ひなく歩めたのは、假名遣ひこそが日本であるといふ思ひがあつたからである。

   福田恆存の漢字にたいする考へについては、今後の宿題である。殘念ながら、それは間に合はなかつた。白川靜をもう少し讀んでから、まとめてみようと思ふ。

   最後に、福田恆存が田中美知太郎と共に創設した「日本文化會議」に寄せた言葉を引用して、終はらうと思ふ。

      まともな仕事のやりにくい世の中だが、何としてでもそれをやつて行きたいといふ極く單純な願ひから發したものだといふ事である。大それた事は考へてゐない、大それた事を考へる人間が世の中を歪めてしまつたといふのが私達の考への出發點だからである。

(「僞善と感傷の國」もともとの題は「若者に引掻き廻されてたまるか」であつた。)

   次囘は、「質問に應へる」を載せるつもりです。

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