言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

「空母いぶき」を観る

2021年03月14日 19時41分04秒 | 映画

 

 

 PRIME VIDEOでの視聴。ふと見ると無料で観られるやうになつてゐた。映画館で見ようと思つてゐたが、いつの間にか終はつてゐたので、いつか見よう思つてゐた映画だ。今日は久しぶりの休日で、電車で街に出かけて昼を外食で済まし、そのまま買物をしてきて、ゆつたりとした気分で帰宅して夕方から見始めた。

 架空の共和国から我が邦の島が占拠されるところから話は始まる。偵察に行つた戦闘機は撃墜。2名の死者が出る。しかし、政府は動かない。防衛出動を出す事態とは認定しないのである。ただし、国民には知らされぬまま自衛隊は出動し、空母いぶきを中心とした防衛艦隊が島に急行する。そのうちに敵国からの攻撃が始まる。敵にも死者が出る。が、一気に敵を倒すことはしない。攻撃は、戦闘艦を轟沈させることよりも戦力を封じ込めるものに限られる。なぜか。「我が国は二度と戦争をしないことを誓つた」からだ。佐藤浩市演じる総理大臣は、極めて優柔不断でよく言へば内省的な振る舞ひであるが、その台詞だけは語気を強めて発せられた。監督の思想がそれを求めたのだらうが、専守防衛に徹するといふことは、なるほどこのやうに自制的であるといふことなのかと、リアルに感じられた。

 いろいろと戦闘シーンが続くが、最後は安保理の常任理事国である五か国の潜水艦が国連軍の旗を掲げて、両軍の制止に入る。そして、戦争に至らず平和が保たれた。

 かういふ映画が人々に求められ、そして作られたといふことの意味は何か。

 私たちの現在は、これほどに戦争への忌避が強いといふことであらう。相手を中国ではなく、架空の共和国にしたのはなぜか。それは中国にしてしまへば、その最後のシーンを描くことはできないし、人々も空想に浸つて平和を感じることができなくなるからである。思考停止を続けるためには、相手が架空の共和国でなければならないのである。

 となれば、この時代にこの映画が作られた意味は、さらに深いところにある。それは私たちの戦争への強い忌避を示すには、思考停止が必要であるといふことである。戦争をしないといふ決意は、もはや架空の世界でしか成り立たないといふことをじつは示してしまつたのである。

 それはきつと監督も意識できなかつたことであらう。平和主義に貫かれた、現実的な日本人の戦闘行為の経緯を示したのであるが、その最初のところで架空の共和国を設定したといふところですでに、その崇高な理想は破綻を来たしてゐたのである。

 残念な映画であるが、逆にそれは日本の平和主義者の能天気ぶりを示してゐて有為でもあつた。

 痛快ではないが、時間の無駄ではなかつた。

 

 作者 かわぐちかいじ   監督 若松節朗

 原作では敵国は中国となつてをり、尖閣諸島への侵攻が端緒となつてゐる。それを架空の国にし、物語を平和主義に染め上げたのは監督の思想である。

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