言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

國語問題協議會に参加して

2020年11月13日 19時22分28秒 | 日記

 久しぶりに先週の土曜日、會の例會に参加した。

 31名の参加で、席はすべて埋まつてゐた。小堀桂一郎先生もいらしてゐた。講演は二つ。浅川哲也氏の『日本語の危機的状況について』と、竹本忠雄氏の『宮本武蔵』である。

 前者は、主に「ら抜き言葉」など認められないといふ保守的な立場の国語観で、当會で話すのは言はば安全地帯での発言で迫力はあるが新鮮味はない。議論を深めるために「かうした規範意識の強い国語観をお持ちの先生はなぜ歴史的仮名遣ひを使はないのか」と尋ねたが、「契沖仮名遣ひは話し言葉の影響を受けて変化してゐるので、仕方ない」とのお答へであつた(註)。「?」がいくつも頭に浮かんだので、もう一回だけ同じ質問をしたが、答へは変はらなかつた。「ら抜き言葉は許さない」と激しく論難してゐる人が、仮名遣ひの改変には「仕方ない」と言ふのでは筋が通らない。しかも、そのことに無頓着であることに正直驚いてしまつた。国語学とは暢気な学問である。

 註 当日ご講演をされた浅川先生より、先生のご発言の要約が間違つてゐるとご指摘を受けました。先生の発言の御趣旨は「契沖仮名遣いは、日本語の発音の変化の影響を受けないという点で優れた仮名遣いである」とのことで、私は先生のご発言を全く逆に聞き取つたわけで、ここに訂正し、先生に深くお詫び申し上げます。この文章だけを載せると、何を訂正したのか分からなくなりますので、上の誤記もそのまま残しておきます。詳しい経緯は、コメント欄をご覧になつてください。

 後者は、竹本先生の新著にまつはるお話である。騎士道と武士道がどう違ふのかといふことから話を始められたが、声が小さすぎてあまりよく聞き取れなかつた。お仕へする王と天皇との性質の差が、その差であるといふことをアンドレ・マルローを引きながらご説明されてゐたやうに思ふ。また、吉川英治の影響で武蔵遅参説が巷間に流布してゐるが、それは間違ひである、と典拠を示して話されてゐた。また、同じやうに世に広まつてゐる自画像も本物ではなく、本物はこれだと絵の写しを持つて来られてゐた。足の指が開き地をつかんでゐる、この姿こそ真実の武蔵像であるとのことだ。竹本先生が何故武蔵を選んだのか、それは天皇への思ひにあるのだらうか、といふ気がした。

 その後、茶話会では一言挨拶をして退出し家路を急いだ。

 とても充実した一日だつた。

 帰りがけに、この度會長になられた谷田貝常夫先生からご著書をいただいた。『国語読解・要約法』である。東大の英文科を出られてゐたからてつきり英語の先生かとその日まで思つてゐたが、国語の教師だつた。非礼をまた犯してしまつた。

 

 

 

 

 

コメント (3)
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