言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

二人の追悼

2020年02月05日 21時55分03秒 | 評論・評伝

 二人の人物が相次いで亡くなつた。

 かつてはよく読んでゐた二人であつたが、今は読まなくなつてしまつた。

 一人は、坪内祐三氏である。まだ若い。福田恆存の最後の門下生と言つてもよいだらう。ただ、根本的なところで福田とは違ふ考への持ち主であつた。福田恆存の没後のシンポジウムで「歴史的仮名遣ひはコスプレだ」と発言したとき、私はその場にゐた。ああ、かういふことを言ふ人であるか、と実に残念な気がした。軽みのある、私にはとてもまねのできない読みやすい文章を書かれる人であつたが、その軽みは重しを失つた軽さであつたか。早稲田大学の文学部には、かういふ人が多い。私の思ひこみをさらに強化してくれた人だつた。あの発言以来、読むことは少なくなつた。

 

 

 

 もう一人は、アメリカの文芸評論家のジョージ・スタイナーである。ニュークリティシズムといふのであらうか。何冊か読んだが、とても難しかつた。とても誠実な文章を書かれる人のやうに翻訳からも感じる。1929年生まれであるから、90歳である。大往生であるが、書かないままに構想だけを残した作品もあると思ふ。慶應義塾大学に招かれた時の発言が収められた『文学と人間の言語』は名著であるが、今日これを読めば、誰が偽物でだれが本物かが明確に分かる。前者が加藤周一で、後者はもちろんスタイナーだ。難解である。じつに難解であるが、彼の書は手放す気にはなれない。

 

 

お二人のご冥福を祈る。

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