言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

翻訳できないのは、文章が正しくないから。

2017年07月02日 11時42分32秒 | 日記

 外国文学を日本語でしか読めない。

 語学無能力者の悲哀であるが、それを逆手にとつて役に立てることもある。

 それは何か。

 翻訳物を読んでゐてつまらないものが多い。そのほとんどは、翻訳文が悪いからといふことが理由になつてゐる。しかし、本当か。

 考へられる可能性は二つ。

 1 翻訳者の原文理解が稚拙である場合。

 2 原文自体が稚拙である場合。

 多くは、原文は名著であるのだから翻訳が悪いといふところで落ち着くことになるが、それは原文への尊敬心が強くて真実の評価をできてゐないからではないかといふ疑問もある。

 翻訳物を読むものは原文が読めない。だから翻訳された日本語が悪ければ翻訳能力を疑つてしまふ。しかし、「2」の場合もあるのである。翻訳することができないものを翻訳しろつ言つても無理な場合である。

 「ここに机がある」は英語に訳せるが、「あるが机にここ」は訳せない。「普遍的な日本人の人間関係が直観的な真実を内包してゐないのは私のせいであるとは思へない。」は「I do not think that it is my fault that the universal Japanese human relationship does not contain intuitive truth.」としても意味をなさない。

 つまり、言ひたいのはかういふこと。翻訳可能性の有無が、その日本語の正否の基準になるのではないかといふことである。
 
(未完成)

 

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