言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

芦田宏直先生再訪

2017年04月03日 18時21分01秒 | 日記

 今日の三河地方は快晴。とても暖かく過しやすい一日だつた。

 昼過ぎに、岡崎市にある人間環境大学の副学長である芦田先生を訪ねた。二回目。今日は入学式といふことで慌しい面談となつたが、たつぷりと話をすることができた。頭の回転が速い人との対話は時間の長短とは関係ない収穫があつた。

 話題はもつぱら中等教育の課題とその解決方法についてである。生々しい意見の開陳があつて、ここでは書けないが、なるほどなるほどと大きく頷くことばかりである。

 人材には、ジョブ型とメンバーシップ型との二つがあつて、研究対象には忠誠を尽くすが、組織への忠誠心は最も稀薄な人種が全人教育を行ふことは果たして可能なのか、といふ問題意識から対話は始まつた。

 知識と人間性、この二つは中等教育の場で両立できるのかといふことである。

 知識とは、本から学べること。教師を媒介として蓄積していくべきもの。   ← ①

 人間性とは、畢竟親の人間性である。10代の青年の人間性は、そのまま親の人間性である。   ← ②

 ①の習得によつて、②から離脱する。これが中等教育のモデルである。

 なるほど、である。

 だから、芦田先生は徹底的に詰め込み教育をすべきと言ふ。アクティブラーニングなど東大生を対象にする以外機能しない、そこまで仰る。痛快であつた。

 授業のあり方(ロザンの宇治原のノートの取り方にまで言及)、人事の進め方、組織のあり方などなど矢継ぎ早に話され、最後には「あなたの学校に行かせろ、私が話してやる」とまで仰る。実に面白い。

 次回の約束はないが、また会はうと思ふ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする