言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

反知性主義、歴史修正主義、言葉を正確に。

2016年08月29日 20時06分07秒 | 日記

 昨日の産経新聞の「正論」に、儒学者の加地伸行先生が「『正史』とは歴代中国王朝の自己正当化の手段にすぎない 『歴史修正主義』の罵倒に臆するな!」http://www.sankei.com/column/print/160825/clm1608250009-c.htmlを書かれてゐた。

 私も大学では日本史を学んでゐたので、加地氏が指摘する歴史学会の状況はよく分かる。当時の日本史学会の「正史」は階級闘争史観であり(今も日本史学会にはさういふ傾向があるらしい)、統治者を擁護するやうな主張があれば、「皇国史観」「右翼的」「ヒヨつてゐる」と言はれた。借金証文ばかりを読んで、その地域の搾取の構造を明らかにするのが、立派な実証研究であつた。石母田正、永原慶二、芝原拓自、安良城盛昭、鬼頭清明などは必読であつたし、一時有名になつた網野善彦などは、寄つてたかつて批判される論敵であつた。

 今でも統治者に対して都合がよくなるやうな歴史叙述にたいして「歴史修正主義」といふ言ひ方をする人がゐる。そこには、唯一の「正史」があるといふ観念があり、それ以外を排除するといふ意識がある。もちろん、定説といふものはあるだらう。しかし、歴史などは新しい史料が一つ発見されればすぐにそんな定説は覆されてしまふ。さういふ性質の学問である。となれば、歴史修正主義こそ正しい歴史の研究方法である。そのことを知つてか知らずか、「歴史修正主義」とレッテル貼りして何か批判をしたやうな気になつてゐる、一部知識人やマスコミ人がゐるから驚きだ。

 加地氏がこんな「常識」を言はなければ、人々の言語感覚はゆらいでゐるのである。

 そして、歴史修正主義と同じやうな運命になりさうなのが、「反知性主義」である。今年の東大の問題で内田樹の文章が出題されたが、そのなかでこんなことを書いてゐる。

「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と「私たちに告げる」人が反知性主義者だと言ふのだ。そして、付け加へてこんなことまで書いてゐる。「その人自身は自分のことを『知性的』であると思っているかも知れない。たぶん、思っているだろう。知識も豊かだし、自信たっぷりに語るし、反論されても少しも動じない。」

 今年の2月25日、この問題を東京から帰る新幹線の中で読みながら、怒りに震えてゐた。こんな自己欺瞞の文章を東大が出題したといふことへの怒りと、こんな文章を入試で読ませたことへの怒りである。出題者は、内田樹が自己欺瞞に気付いてゐないといふことを茶化すために出題したのだらうか。それならば面白い。しかし、それなら「格調高い日本語の文章を出題する」といふ東大のアドミッションポリシーに反してゐることになる。となれば、内田樹の自己欺瞞に気付かずに、そのまま出題して統治者を批判するといふお為ごかしを犯しながら、そのことに気付かずにほくそ笑んでゐるまことに愚かで幼稚な知性を感じてしまふのである。

 内田樹は、反知性主義といふ用語の「発案者」である、リチャード・ホーフスタッターの著者から、ご丁寧にも引用してゐる。

「反知性主義は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育ある者にとって、もっとも有効な敵は中途半端な教育を受けた者であるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人びとであり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想に取り憑かれている。反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほんといない。」

 

 この引用が、あたかもホーフスタッターの「反知性主義」の定義であるかのやうに見せかけ(内田の書いた文章のなかではこの定義に即したものしか引用されてゐない。)、自身の定義に権威付けを与へてゐる。しかし、ホーフスタッターは、この引用の前のところで、「反知性主義」のむずかしさを何度も書いてゐる。そして、かう記してゐる。

「思想としては単一の命題内容ではなく、相互に関連ある命題が重なりあった状態を指すし、心的姿勢としては通常アンビヴァレントなかたちで表わされる(知性あるいは知識人にたいする純粋な嫌悪はまれである)。」

 ホーフスタッターは、まるで内田のやうな利用のされ方を警戒するかのやうに、この言葉を慎重に使つてゐるのだ。そして説明する段階においても、反知性主義がどういふ意味を表してゐるのかを例示する前に、表さない内容について例示するといふ手法を用いてゐる。

 それなのに、内田は唯一の定義として先の引用を利用してゐる。知性主義といふものの陥穽を実体で示してくれてゐるかのやうだ。

 ついでながら、国際基督教大学の副学長で、新潮選書から『反知性主義』を出した森本あんり氏は、「はじめに」でかう書いてゐた。

「この言葉は、単なる知性への反対というだけでなく、もう少し積極的な意味を含んでいる。というより、(中略)本来『反知性主義』は、知性そのものではなくそれに付随する『何か』への反対で、社会の不健全さよりもむしろ健全さを示す指標だったのである。」

 

 かうした用語の正確な意味も知らずに、内田は引用し、そして東大はそれを入試問題に使用した。幾重にも愚かな行為である。それらが、いづれも自らの政治的立場を正当化するために用いられたレッテル貼りだとしたら、その罪は重いと言はなければならない。

 言葉の定義は正確に、である。

 

参考までに。

http://cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/20/185544

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