言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

落語を聴く

2015年02月15日 10時12分40秒 | 日記
 先日、学校に落語家の柳家三三師匠をお招きして、落語鑑賞会を行つた。東京にゐたころは、何度か落語も聴く機会はあつたけれども、四半世紀、聴くことはなかつた。我が家にもCDは何枚かあるし、小林秀雄が古今亭志ん生を聴いて話し方を勉強したと聞いたので「火焔太鼓」「あくび指南」は何度も聴いた。桂枝雀が大好きな友人がゐてCDを聴いたが、知的で話題は面白いものの無理して笑はせる引きつりがあるやうな感じがあまり好きではなかつた。知的で話題が面白いと言へば立川談志がゐるが、やけに難しい言葉で理屈をこねるが、すべて「当たりはいいが」」と言つた感じで、思考が深まらない散らかし放題の理論についていけず、その弟子の志らく、談春はすこぶる評判がいいからといふので、これもCDやユーチューブで聴いてみたが、あまのじゃくの私にはあまりいいとは感じられなかつた。

 しかし、今回は素直によかつた。一時間ほどで、話は二つ。とにかく笑つた。師匠が言つてゐたが、落語家が一番恐れる質問は、「話が終はつて、『で、それからどうなつたの』」といふことであると言ふ。まつたくその通りである。結論を求めがちの私たちの「合理的精神」をしばし休止して、その瞬間瞬間を笑つて過ごすといふのが落語の効用(これも極めて合理的な説明であるが)なのであるから、「意味」を求めてはならないはずである。
 その意味で、この企画は大成功。とにかく笑つた。話の中身は覚えてゐない。いや思ひ出さうといふことをやめようと思ふ。とにかく楽しんだのだ。話の出来は、CDやDVDの方がいいに決まつてゐる。しかし、あの戸惑ひやひるみを共有しながら、一時間を楽しんだといふことは得難いものであつた。生で聴くのもいいものだ。少しだけ、落語への興味に火が付いたやうに思ふ。

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