ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達してゐて(自然による成年)、他人の指導を求める年齢ではなくなつてゐるといふのに、死ぬまで他人の指導を仰ぎたいと思つてゐるのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僭称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病とにある。といふのも、未成年の状態にとどまつてゐるのは、なんとも楽なことだからだ。
カントの『啓蒙とは何か』の冒頭部分である。「怠惰」これ以上適切な現代批評はない。近代化とは次々と他人任せの範囲を広げていくことであるとさへ言へる。
その怠惰を経ち、精神において自由を獲得させることが自立であり、近代を成立させる基点になるべきだが、皮肉なことに自己をどんどん弱体化させ、欲望だけが肥大化してゐるのが近代となつてしまつた。
儒教にせよ、プロテスタンティズムにせよ、さうした精神による自立の支へがあつて生まれた近代社会であつたが、もう一方で生み出された資本主義によつて、却つてその背骨をへし折られ、その痛みを堪へるために快楽が追求され、消費に人々を向かはせることになつた。しかしその消費による痛み止めの効果は一瞬であつたから、その効果がなくなると前よりも一層強い痛みを感じるやうになるから、人々はいよいよ消費に向かふことになる。消費が豊かさへとつながらずに、私たちの心には不満と空しさとしかやつてこない。私たちの現代のきれいだけれども薄つぺらく、軽いけれどもうまく操ることができず、深刻だけれども原因が分からない状況はさういふ背景に彩られてゐる。
楽を求めてはいけない。やはりこれなんだらうな。
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