言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

『無地のネクタイ』

2013年05月15日 22時22分20秒 | 日記・エッセイ・コラム

無地のネクタイ 無地のネクタイ
価格:¥ 1,470(税込)
発売日:2013-02-23

 讀書から遠ざかつてゐる。毎日ちまちまと讀んでゐたのが、丸谷才一のエッセイ一冊である。新聞を讀み、雑誌を讀み、教科書を讀み、先日のやうに讀書會で専門書を讀みと、活字から離れることはないものの、集中して讀むといふことがない。お恥づかしい限りである。

 一項目5ページほどのエッセイを集めたもの。題材は私好みである。文學論あり、社會批評ありでたいへんに面白かつた。

 二つだけ取り上げる。

 

一つ。

「一国の言語は、歴史によつて然るべく裏打ちされなければ安定を欠き、現在に生き未来に生きつづける力を失ふ。そして言語生活が伝統との縁を回復したとき、言葉の花はまづ引用といふ形で咲き乱れるだらう。」

 古典の引用をどんどんすべきであるといふ主旨である。しごく当然のことであるが、恐らくは出版業界の方を含めて、あるいは學問、教育の世界の方を含めても、主流の考へではないやうに思ふ。

もう一つ。

「われわれは、無慚で冷酷な殺人事件の犠牲者たちに対して、果たして然るべき礼を盡してゐるだらうか。もちろんわたしは国民めいめいが加害者に対して暴力をふるへと挑発してゐるのではない。被害者の肉親による復讐を復活しようなどと時代錯誤なことを提案するつもりはない。しかしわれわれが現代日本人が仏壇を捨て、菩提寺と縁を切り、神社は初詣とおみくじのためのものと化すにつれて、死者たちに対する敬虔さを失つたことは認めなければならない。殺人事件の報に接しても、たいていは無辜の被害者だつた人々の霊に対し、われわれはどれだけ哀悼の思ひを献げてゐるか。われわれは彼らの供養を、死刑といふ形で国家に任せることで、怠けてゐる。」

 犠牲者と被害者との言葉の定義の曖昧さが気になるが、それでも戦後社會が忘れてきた、死者たちへの慰霊といふことへの指摘は重要である。死刑廃止論の是非は別として、生者の闊歩する社會は自由かもしれないが、薄つぺらい。

 それにしても解説が池澤夏樹とは玉に傷である。この人は、丸谷才一にぞっこんだが、果たして解説の任にあるかどうか。評論家としても小説家としてもまつたく評価できない。先日も朝日新聞で、自民党の憲法改正案を揶揄してゐたが、どんな見識があつて言つてゐるのかと思へば現憲法を礼賛してゐる始末、それで自分の論文のタイトルを「揶揄せず原則に返ろう」とするのは、何かの冗談かと思つてしまつた。現憲法にどんな原則があるといふのか。周囲の善意に期待するといふ主旨のもとにできた憲法が、国の指針になりうるのか。憲法について論じるのは勝手だが、自分の姿を鏡に映して、この顔はひどいと言つてゐるやうな代物である。そんな自虐ネタに付き合はされてはたまらない。関心のある方は、夕刊5月9日(愛知版なので、悪しからず)の文化欄を讀んでみてほしい。笑へますよ。

 丸谷才一にもかういふ日本国批判、体制批判はある。さういふところに横恋慕してゐるのが、池澤なのだらう。それでも、丸谷の小説は讀まれても、池澤の小説は讀まれまい。

コメント
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