言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

絶對といふこと

2010年11月24日 22時51分57秒 | 文學(文学)

 西洋の神は絶對者だと言はれる。それに對して私たちの神は、相對的で八百萬の神だと言ふ。

 しかし、絶對者といふものを想定すれば、それは洋の東西も關係ない。絶對者は東洋においても絶對者である。小林秀雄がかつて「私にはクリスト教の神が分からないからドストエフスキーが分からなかつた」と言つたが、たとへ小林秀雄や私たちが考へられるのは八百萬の神であると強辯しても、その背後に絶對者がゐるといふのが絶對者の絶對たるゆゑんである。

 もつと言へば、私がそれを信じようが信じまいが、絶對者はゐると考へなければならないのが絶對といふ言葉の定義である。この邊りのことが分からないから、一神教と多神教などといふ意味のない二項對立で東西を論じることが起きるのである。

 福田恆存は、かつて晩年のインタビューのなかで「價値は一つ。一つだから價値なのだ」と、これ以上ない適切な言葉でそのあたりのことを言ひ當てたが、案外そのことを理解してゐる人は少ない。福田恆存の御弟子であつた中村保男は最晩年の福田恆存論『絶對の探求』で、そこを書いたゐるやうに見える。タイトルは正確に射拔いてゐる。しかし、それが個人と全體といふ平面的な次元の往復で終つてゐたのは殘念であつた。牽強附會を恐れずに言へば、中村が私の『文學の救ひ』に觸れるのを避けたのも、私の論が個人と絶對との垂直的な上下運動こそ福田恆存が求めたのであるといふことを指摘してゐたからである。となれば、中村も、絶對といふのを相對的なものとしてしか捉へられなかつたといふことになる。

 ましてや福田恆存は神道の神を信じてゐたといふ評言にあつては、あまりに矮小化した福田恆存像と言ふほかはない。

 何度も言ふが、絶對者といふ存在は私がどう思はうと私に絶對的に關はつてくる存在なのである。西洋がさういふ神を發見してしまつた以上、私たちもまたさういふ神と關はらざるを得ないのだ。にも拘はらず、今もなほ日本は日本流で行く、いや多神教の日本こそがこれからの世界の大事な存在なのだと言ふのは、稀代の愚論と言ふ外はないだらう。

 絶對者と相ひ渉る日本論や日本文化論こそが求められるのである。

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