11月26日から28日まで、宮崎県で行はれてゐた「全國人權・同和教育研究大會」に參加してきた。57囘目を迎へる今囘も1萬名を輕く越す規模の大會であつた。
人權も、も、共に保守派は觸れたがらない話題であるが、これからは保守すべきものとは何かを明らかにしてゆく過程で、どうしても觸れていかなければならない問題だらう。惡しき因習はきちんと峻別すべきである。
とは言へ、共産黨や舊社會黨の支配するやうな言はゆる「人權屋」の主張には斷乎批判すべきであることに違ひはない。その意味で、今囘の大會において、どの程度左翼的な言説が跋扈してゐるのか内心樂しみにしながら參加した。
結論的に言へば、登壇する人の意識には、從來の左翼的なものがあるものの、現場においては隨分薄められてきてゐるといふのが印象である。そして、さうであるからこそ、人權問題は厄介なところにきてゐるといふ思ひも持つたのである。
登壇した人の中で、一番ひどかつたのが、ルポライターの鎌田慧氏。この人は十年一日のやうに左翼的言説を一時間話してゐた。それもテーマであつた「人それぞれの人權」にはほとんど觸れず、靖國神社とその隣の遊就館に行つた話に終始し、戰爭反對を言ひ募るのみ。おまけに約束の80分を勘違ひして60分で止めてしまひ「少し時間をオーバーしました」などといふトンチンカンなことを言つて早早に引き上げてしまつた。これには主催者も困つてゐたやうだが、會場のしらけた雰圍氣を無意識に悟つたのであらうか。私はをかしくて笑つてしまつた。
次にひどかつたのが、筑波大學の大學院教授の福田弘氏。人權と言ふ言葉が濫用されてゐることに懸念があると表明したのは良かつたが、「差別は人間が作り出したものだから、人間の力で解決できる」といふ性善説的なあまりに性善説的な主張には、唖然としてしまつた。差別を、戰爭や犯罪やエイズや麻藥や離婚や火事や、その他一切の人爲に當てはめてみて、それだけでは何も解決したことにならないといふことに氣附かない能天氣さに驚いてしまつた。ついでながら、會場から「私の話には舌足らずなところがある」といふことばの中にある身體表現に野次が飛ぶと、反省しきりだつたのが印象的だつた。いかにも良心家といふ感じで人は良いのだけれど、差別といふものが、尊敬といふ精神作用の裏面に存在してしまふといふ兩犧牲に氣附かないのは、大學の先生としては本質的に「舌足らず」だと思つた。ペスタロッチの專門家のやうだが、性善説的な人間觀からは、惡は見えないし、じつは善も見えてゐないのである。
まともだつた人は、なんと文部科學省の御役人だつた。今泉柔剛氏。いかにもエリート街道まつしぐらといふ30代と覚しき青年である。行政説明にやつてきただけだが、「人權教育は地區や民族差別の問題がある地域だけで行はれるものではなく、四萬に及ぶすべての學校で行はれるべきものだ。そして子供たちをあらゆる身體的精神的な暴力から守らなければならない」と溌剌と言つてのけたのには、胸を打たれた。「あらゆる身體的精神的な暴力」とはいつたい何を意味するのかといふことをおそらく考へたこともなく自明のこととして言へる青年らしさは、重い雰圍氣のこの大會において、清涼感をもたらしてくれた。
このブログの讀者にこれ以上書いてもあまり關心をもたれないと思ふので、このあたりでやめようと思ふが、最後にもう一度、保守派こそ人權を主張する時代だ。ただし、名稱は「人格人權問題」とすべきである。
人權も、も、共に保守派は觸れたがらない話題であるが、これからは保守すべきものとは何かを明らかにしてゆく過程で、どうしても觸れていかなければならない問題だらう。惡しき因習はきちんと峻別すべきである。
とは言へ、共産黨や舊社會黨の支配するやうな言はゆる「人權屋」の主張には斷乎批判すべきであることに違ひはない。その意味で、今囘の大會において、どの程度左翼的な言説が跋扈してゐるのか内心樂しみにしながら參加した。
結論的に言へば、登壇する人の意識には、從來の左翼的なものがあるものの、現場においては隨分薄められてきてゐるといふのが印象である。そして、さうであるからこそ、人權問題は厄介なところにきてゐるといふ思ひも持つたのである。
登壇した人の中で、一番ひどかつたのが、ルポライターの鎌田慧氏。この人は十年一日のやうに左翼的言説を一時間話してゐた。それもテーマであつた「人それぞれの人權」にはほとんど觸れず、靖國神社とその隣の遊就館に行つた話に終始し、戰爭反對を言ひ募るのみ。おまけに約束の80分を勘違ひして60分で止めてしまひ「少し時間をオーバーしました」などといふトンチンカンなことを言つて早早に引き上げてしまつた。これには主催者も困つてゐたやうだが、會場のしらけた雰圍氣を無意識に悟つたのであらうか。私はをかしくて笑つてしまつた。
次にひどかつたのが、筑波大學の大學院教授の福田弘氏。人權と言ふ言葉が濫用されてゐることに懸念があると表明したのは良かつたが、「差別は人間が作り出したものだから、人間の力で解決できる」といふ性善説的なあまりに性善説的な主張には、唖然としてしまつた。差別を、戰爭や犯罪やエイズや麻藥や離婚や火事や、その他一切の人爲に當てはめてみて、それだけでは何も解決したことにならないといふことに氣附かない能天氣さに驚いてしまつた。ついでながら、會場から「私の話には舌足らずなところがある」といふことばの中にある身體表現に野次が飛ぶと、反省しきりだつたのが印象的だつた。いかにも良心家といふ感じで人は良いのだけれど、差別といふものが、尊敬といふ精神作用の裏面に存在してしまふといふ兩犧牲に氣附かないのは、大學の先生としては本質的に「舌足らず」だと思つた。ペスタロッチの專門家のやうだが、性善説的な人間觀からは、惡は見えないし、じつは善も見えてゐないのである。
まともだつた人は、なんと文部科學省の御役人だつた。今泉柔剛氏。いかにもエリート街道まつしぐらといふ30代と覚しき青年である。行政説明にやつてきただけだが、「人權教育は地區や民族差別の問題がある地域だけで行はれるものではなく、四萬に及ぶすべての學校で行はれるべきものだ。そして子供たちをあらゆる身體的精神的な暴力から守らなければならない」と溌剌と言つてのけたのには、胸を打たれた。「あらゆる身體的精神的な暴力」とはいつたい何を意味するのかといふことをおそらく考へたこともなく自明のこととして言へる青年らしさは、重い雰圍氣のこの大會において、清涼感をもたらしてくれた。
このブログの讀者にこれ以上書いてもあまり關心をもたれないと思ふので、このあたりでやめようと思ふが、最後にもう一度、保守派こそ人權を主張する時代だ。ただし、名稱は「人格人權問題」とすべきである。