言葉の救はれ・時代と文學

言葉は道具であるなら、もつとそれを使ひこなせるやうに、こちらを磨く必要がある。日常生活の言葉遣ひを吟味し、言葉に学ばう。

言葉の救はれ――宿命の國語21

2005年06月26日 22時25分16秒 | 日記・エッセイ・コラム
 言葉にたいして、「通じればよい」といふ程度のモラルしかない國民には、「正式な場での話し方」を教育しようといくら教師が試みても、することはできない。なぜなら、その必要を感じないからである。
 「できない」と斷言してしまへば、あるいは教育の抛棄かと注文をつけられさうだ。したがつてもう少し正確に言へば、通じればよいといふ認識を變へることなくして、正式な言ひ方を教育することはできないのである。
 「國語の傳統」は、「通じるか通じないか」といふ次元で人人が言葉を考へるうちに保たれるのものではない。言葉が手段であるといふのであれば、「より便利なのものがよい」といふことになりかねない。明治の時代に森有禮が「國語を英語に」と言つたことや、戰後に志賀直哉が「國語をフランス語」にと言つたことは、その分かりやすい例である。彼等が、その利便性に焦點をあてて、さうした結論を出したといふより、後進國家のコムプレックスと言つた方が適切であるから、細かく檢證するに値するものではないが、國語を手段で語るといふことを堂堂と當代一流の知識人が語るといふことに示される、私たち日本人の性向はどうにも情けなく、その缺點は明確にしておく必要はあらう。
 言葉は、手段ではないのである。言葉は、むしろ目的であつて、その意味も用法も、先人がいかに使つて來たかといふことのうちにしかないのである。したがつて、言葉を使ふといふのは、表面的な言ひ方なのであつて、じつは言葉に學び、言葉が私たちを育て思考させるとも言へるのである。もちろん、子供が發する或る種の言葉遣ひや、詩人がくりだす言葉の妙味は、慣習としてある言葉をたくみにずらし、異化の作用によつて、新しい意味の世界に導いてくれるといふこともある。しかし、それすらも傳統的に蓄積された言葉の意味や用法が産み出してくれるものであるから、言葉は手段としてあるといふより、目的としてあるものだと考へた方が妥當である。
 したがつて、言葉が目的であるとすれば、「通じるか通じないか」などといふことはあまりにも當然のことであつて、言葉の吟味の條件にはならない。そんなものを基準として設定しなければ「國語の傳統」が保たれないといふのであれば、その國語は相當危機的状況である。
 國語は、どう表現するのが良いのだらうか、より的確な表現はどうすればできるのだらうかといふ、より上位のものを求める精神のうちにおいて保持されるのである。
 子供達は、いや最近ではかなりの年齡の人々も、自身の鬱屈した心情を表すのに「むかつく」といふ一語で片附けてしまふやうだ。怒りの状況をほとんど條件反射的に「むかつき」として反應してしまふといふことは、最も大切な感情である「怒り」においてさへ、義憤なのか、私憤なのか、苛立ちなのか、愛情ゆゑなのかといふ吟味の機會を失はせてしまつてゐるやうである。「怒り」といふ感情に適切な言葉を與へ、心の奧に沈澱させていく言葉の力に出會ふ機會を自ら放棄してしまつてゐるかのやうである。


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