ドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』上映会のお知らせです。
と き 2007年6月17日(日) 午後1時30分開場 2時上映開始
ところ 桑名中央公民館学習室(桑名市中央町、桑名郵便局隣り)
参加費 500円
主 催 戦争をしない・戦争協力もしない三重ネットワーク
連絡先 090-8549-8923(富田)
■「ビデオと過ごす」(『週刊金曜日』2005年6月24日号)より
三重・和歌山両県の境にある石原産業が経営した紀州鉱山と、中国・海南島。この離れた二つの場所は、「朝鮮人強制連行」で60年近い歳月を超え、一つに結ばれる。
「朝鮮村」――。朝鮮人が一人も住んでいないにも拘わらず、こう呼ばれる「村」が海南島にあった。植民地下朝鮮の刑務所から連行された朝鮮人が鉱山などでの強制労働の末、虐殺・遺棄された場所なのだ。侵略の縮図だったこの島は第二次大戦中、飛行場や「慰安所」までも建設された。
威圧感を今に残す多数のトーチカの跡。虐殺の様子を昨日のことのように嘆き、語る人々。侵略は文字上の歴史でなく、血の通う実感として息づいていた。このビデオは、地域における日本のアジア侵略の検証と責任追及に取り組んできた人々の16年にわたる「旅」の終着点であり、日本とアジアの今と未来に向け、多くの人々を誘う新たな「旅」への道案内でもある。
■足立正生「『日本が占領した海南島で』を観て」より
日本が占領した海南島で」を観ていると、どくどくどくと鼓動が弾み始め、映像を焼き付けた脳裏が独りでに蠢動を始め、全身が映像の中に吸い込まれて行く。
この、紺碧の空と濃緑に囲まれた美しい海南島の郷土で、強制連行され強制労働で痛めつけられた「朝鮮村」の人々が、何を恨んで死んで行ったかを感じ取ろうとする。
今はただただ荒野の滑走路跡にどれほどの血と魂が吸い込まれているのか。その島を占領した日本の軍隊と国策企業が強行した戦争犯罪の史実の実態を記憶しようとする。
生き残った現地の人々の語りが聞こえる。日本語のナレーションが語る。
26年間、私が生活を共にしていたパレスチナの人々も、家族を虐殺され村を焼かれて追われた難民生活の中で、自分に降りかかった厄災の数々を語った。しかし、迸り出る言葉さえもどかしくなり、自然と伸びた両手が故郷の村の姿を描き始め、瞳はその村の光景を見つめて虐殺の現場にたどり着く。全身が一瞬凝固して、やがて、全てを飲み込んで胸をかき抱き、オリーブの木が、母が、父が、兄弟姉妹が、子供たちが、と瞑目したまま動かなくなる。それを今、新たに海南島の人々の語りに共鳴させて聞いているのだ。
今、『日本が占領した海南島で』の中で人々が語るのは、風化しようにも風化できない事実なのである。
■松田政男「“こころして墓標を残す” 『日本が占領した海南島で』を見て」より
会の前身が発足してからでも15年以上を閲し、紀州鉱山―韓国―海南島へ足跡が伸長し行く「現地調査」を始めてからも10年近くが経過した。はじめ韓国のTV各局への協力から始まった映像記録の体験も、やがて自力による短篇制作を経つつ2年有余に及ぶ。
南端の「朝鮮村」から始まって、日本民俗学の「聞き書き」にも由来する「聞き撮り」の手法を文字通り貫徹させつつカメラが北上し行く時、ただ一ヵ所で往年の収容所跡からも遠望されたとコメントされる高い塔を除いては、以降ランドマークは現れることはない。何故にか? 遠景ならぬ近景としてのランドマークが海南島の村々に、文字通り無数無名の碑として田園に山間に街頭に出現し、記録され行くからだ。
強制連行された朝鮮人であれ海南島の現地人であれ、これまた文字通り無告無名の碑銘が刻まれた碑の群れは、言うまでもなく日本帝国主義の軍隊の蛮行への無告無言の告発である。
海南島に遺された墓標の群列はまさしく「こころして残された」血債の記録だ。日本の観客はまさにこころして、対面しなければならない。
と き 2007年6月17日(日) 午後1時30分開場 2時上映開始
ところ 桑名中央公民館学習室(桑名市中央町、桑名郵便局隣り)
参加費 500円
主 催 戦争をしない・戦争協力もしない三重ネットワーク
連絡先 090-8549-8923(富田)
■「ビデオと過ごす」(『週刊金曜日』2005年6月24日号)より
三重・和歌山両県の境にある石原産業が経営した紀州鉱山と、中国・海南島。この離れた二つの場所は、「朝鮮人強制連行」で60年近い歳月を超え、一つに結ばれる。
「朝鮮村」――。朝鮮人が一人も住んでいないにも拘わらず、こう呼ばれる「村」が海南島にあった。植民地下朝鮮の刑務所から連行された朝鮮人が鉱山などでの強制労働の末、虐殺・遺棄された場所なのだ。侵略の縮図だったこの島は第二次大戦中、飛行場や「慰安所」までも建設された。
威圧感を今に残す多数のトーチカの跡。虐殺の様子を昨日のことのように嘆き、語る人々。侵略は文字上の歴史でなく、血の通う実感として息づいていた。このビデオは、地域における日本のアジア侵略の検証と責任追及に取り組んできた人々の16年にわたる「旅」の終着点であり、日本とアジアの今と未来に向け、多くの人々を誘う新たな「旅」への道案内でもある。
■足立正生「『日本が占領した海南島で』を観て」より
日本が占領した海南島で」を観ていると、どくどくどくと鼓動が弾み始め、映像を焼き付けた脳裏が独りでに蠢動を始め、全身が映像の中に吸い込まれて行く。
この、紺碧の空と濃緑に囲まれた美しい海南島の郷土で、強制連行され強制労働で痛めつけられた「朝鮮村」の人々が、何を恨んで死んで行ったかを感じ取ろうとする。
今はただただ荒野の滑走路跡にどれほどの血と魂が吸い込まれているのか。その島を占領した日本の軍隊と国策企業が強行した戦争犯罪の史実の実態を記憶しようとする。
生き残った現地の人々の語りが聞こえる。日本語のナレーションが語る。
26年間、私が生活を共にしていたパレスチナの人々も、家族を虐殺され村を焼かれて追われた難民生活の中で、自分に降りかかった厄災の数々を語った。しかし、迸り出る言葉さえもどかしくなり、自然と伸びた両手が故郷の村の姿を描き始め、瞳はその村の光景を見つめて虐殺の現場にたどり着く。全身が一瞬凝固して、やがて、全てを飲み込んで胸をかき抱き、オリーブの木が、母が、父が、兄弟姉妹が、子供たちが、と瞑目したまま動かなくなる。それを今、新たに海南島の人々の語りに共鳴させて聞いているのだ。
今、『日本が占領した海南島で』の中で人々が語るのは、風化しようにも風化できない事実なのである。
■松田政男「“こころして墓標を残す” 『日本が占領した海南島で』を見て」より
会の前身が発足してからでも15年以上を閲し、紀州鉱山―韓国―海南島へ足跡が伸長し行く「現地調査」を始めてからも10年近くが経過した。はじめ韓国のTV各局への協力から始まった映像記録の体験も、やがて自力による短篇制作を経つつ2年有余に及ぶ。
南端の「朝鮮村」から始まって、日本民俗学の「聞き書き」にも由来する「聞き撮り」の手法を文字通り貫徹させつつカメラが北上し行く時、ただ一ヵ所で往年の収容所跡からも遠望されたとコメントされる高い塔を除いては、以降ランドマークは現れることはない。何故にか? 遠景ならぬ近景としてのランドマークが海南島の村々に、文字通り無数無名の碑として田園に山間に街頭に出現し、記録され行くからだ。
強制連行された朝鮮人であれ海南島の現地人であれ、これまた文字通り無告無名の碑銘が刻まれた碑の群れは、言うまでもなく日本帝国主義の軍隊の蛮行への無告無言の告発である。
海南島に遺された墓標の群列はまさしく「こころして残された」血債の記録だ。日本の観客はまさにこころして、対面しなければならない。
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