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三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山の真実を明らかにする会第23回海南島「現地調査」 5

2013年03月17日 | 海南島史研究
 3月26日に訪問する昌江黎族自治県昌化鎮大風村に日本軍が構築した保塁と橋について、何十里「大風日本保塁和木橋述略」(政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』 第5輯、1993年5月)には、つぎのように書かれています。
                                           佐藤正人

 
 “1939年9月、昌化江北岸地区の保平、烏烈、納風、大風、耐村、波炳、昌城、昌化などのはすべて日本海軍横須賀第4特別陸戦隊に占領された。
 1939年末に、日本軍は、大風村と耐村の境界から昌化江の対岸までの木橋の建設をはじめた。日本軍は、耐村、黄羌村などから200人あまりの人を強制連行して3か月以上働かせて、全長約400メートル、幅8メートルの木橋(略称:大風木橋)をつくった。
牛車、自動車が通れる木橋で、南北の両端には歩哨所があった。歩哨所には、昼も夜も日本兵が駐在し、通行人を監視していた。
 大風木橋は、昌化江北岸地域の日本軍と北黎の横須賀第4特別陸戦隊司令部の交通が容易になり、昌化江北岸地域の民衆がこうむる災厄は大きくなった。
 1941年秋に大風村を根拠地とする日本軍は、近辺の民衆を強制的に働かせて、大風木橋の北方約300メートルの地点に保塁(略称:大風日本保塁)をつくった。
 大風保塁の面積は約5畝(約33アール)で、円形で、周囲には深さ4メートル、幅8メートルの壕がつくられていた。壕の内側には、高さ3メートル幅1メートルの土塀がつくられており、壕の外側は鉄条網で囲まれていた。
 保塁の中には5階建ての望楼がつくられ、その両脇にはそれぞれ90平方メートルの建物がつくられていた。
 保塁には日本軍1個小分隊の約18人の日本兵が駐屯していた。
毎日、大風村と耐村の村人が、日本軍のために焚き木集め、水汲み、炊事、雑用をさせられた。保塁の日本兵は、毎日のように付近のに侵入し、鶏、豚、羊、牛などを奪った。
 1943年11月末、耐村の保長であった陳真有は、黄という姓の日本軍の通訳官と連絡をとりあい、大風保塁の日本軍の機械庫から武器弾薬を奪い抗日武装部隊に送りとどけた。
 日本軍の投降後、地域の民衆は、大風保塁を破壊した”。