三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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日本の独島再占領を許さない民衆運動を!

2013年03月07日 | 個人史・地域史・世界史
■日本は侵略によって領土を拡大した
 独島問題は、領有権問題でなく、植民地問題である。
 日本政府は、1869年にアイヌモシリを「北海道」とし、1872年に琉球王国を「琉球藩」として日本の領土とした。1875年に、日本政府は「千島列島」全域を領土とした。
 その翌年、1876年に、日本政府は「小笠原島」を日本の領土とした。
 「小笠原島」の日本領土化は、1933年の日本外務省の機密文書では「帝国ノ為シタル島嶼先占事例」の最初の例とされていた(日本外務省条約局『国際法先例彙輯(2)新領土ノ発見及取得ニ関スル先例 島嶼先占』〈1933年10月調〉)。
 日本政府は、「小笠原島」を領土とした翌年1877年に、「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」とする太政官指令をだし、「竹島外一島」(欝陵島と独島)は日本の領土ではないことを明示した(太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」と書かれている)。
 それにもかかわらず、日本政府は、1905年1月28日、ロシアとの戦争のさなか、ロシアのバルチック艦隊がヴラジヴォストークに向かっていたときに、閣議で、「他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク」という偽りを前提にして、大韓帝国の独島を「本邦所属」として「併合」するとともに島名を「竹島」にした。その3か月前、1904年11月に、日本海軍司令部は、望楼建設のために、独島の本格的調査をおこなっていた。
 1905年11月17日に、日本政府は、大韓帝国を日本の「保護国」(植民地)とし、1910年8月22日に、大韓帝国全土を「併合」した。

■なぜ、そのようなことができたのか(世界近現代史における独島植民地化)
 日本の独島占領は、近現代における帝国主義諸国の他地域・他国侵略の一環である。
 日本の台湾植民地化、独島を含む大韓帝国植民地化の前後に、アメリカ合州国、イギリス、ドイツ、フランスなどが、ハワイ諸島、プエル・トリコ、グアム島、マダガスカル、サモア、テ・アオ・マオヒなどを植民地とした。帝国主義諸国は、相互に、他地域・他国植民地化を黙認・追認・同意していた。
 日本の大韓帝国植民地化は、アメリカ合州国、イギリス、フランス……の黙認なしには不可能であった。

■独島を「我が国固有の領土」とする日本ナショナリズムの本質
 日本政府は、独島を、いまなお「竹島」と称し、「竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です」と主張し、独島の再占領を策動している。
 日本政府の独島再占領策動は、日本政府が朝鮮を植民地としたことを根本的に否定していないことを示している。日本が独島をふくむ大韓帝国を植民地としていなければ、朝鮮は分断されなかった。
 日本政府は、朝鮮植民地化の歴史的責任をとろうとしていない。
 独島は、朝鮮で最初に日本の植民地とされた地域である。
 日本政府が、独島を「日本国家の固有の領土」と主張することは、国民国家日本の朝鮮植民地化を肯定することである。
 日本の独島再占領策動および「北方領土返還」策動は、領土を拡大し国境線(および経済水域)をおし広げようとする帝国主義国日本の現在の他地域・他国侵略策動の一環である。

■日本ナショナリズムとの対決
 1905年の日本政府による独島領土化は、日本のアジア太平洋侵略の一環であり、大韓帝国植民地化の起点であった。
 日本民衆が日本の独島再占領を許すことは、日本の過去・現在・未来の他地域・他国侵略を肯定することである。
 独島の日本再占領を許さない民衆運動は、「北方四島」の日本再占領を許さない運動(アイヌモシリをアイヌ民族にとりもどす運動)とともに、日本ナショナリズムと対決し、日本のあらたな侵略の時代に対抗する民衆運動である。

        以上は、3月1日のソウルの天道教中央大教堂でのわたしの話の要点です。
                                          佐藤正人
コメント (5)
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