3月26日に訪問する昌江黎族自治県十月田鎮羌園村にかんして、鐘春「日寇侵占羌園村始末」(政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』 第5輯、1993年5月)には、つぎのように書かれています。
佐藤正人
“1939年9月に羌園村で抗日遊撃隊が組織された。隊長は盧建信で隊員は30人あまり、銃は15挺あった。
1940年3月に50人あまりの日本兵が昌化河の対岸から発砲してきたが、河を渡ることができなかった。
その10日後、300人あまりの日本兵が羌園村を包囲したが、遊撃隊は退路を開き、日本軍が村に侵入したときには村に人影はなかった。
さらにその10日後の夜、100人あまりの日本兵が羌園村に侵入してきたが、すでに村人はすべて山に逃げていた。日本兵は、村を焼いた。
そのあと、村人は「良民証」を受けとることにした。
治安維持会がつくられ、保甲制度が実施された。
日本軍は村人に望楼をつくらせた。女性をはずかしめた“。
佐藤正人
“1939年9月に羌園村で抗日遊撃隊が組織された。隊長は盧建信で隊員は30人あまり、銃は15挺あった。
1940年3月に50人あまりの日本兵が昌化河の対岸から発砲してきたが、河を渡ることができなかった。
その10日後、300人あまりの日本兵が羌園村を包囲したが、遊撃隊は退路を開き、日本軍が村に侵入したときには村に人影はなかった。
さらにその10日後の夜、100人あまりの日本兵が羌園村に侵入してきたが、すでに村人はすべて山に逃げていた。日本兵は、村を焼いた。
そのあと、村人は「良民証」を受けとることにした。
治安維持会がつくられ、保甲制度が実施された。
日本軍は村人に望楼をつくらせた。女性をはずかしめた“。