三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

紀州鉱山の真実を明らかにする会第23回海南島「現地調査」 3

2013年03月15日 | 海南島史研究
 3月26日に訪問する昌江黎族自治県十月田鎮羌園村にかんして、鐘春「日寇侵占羌園村始末」(政協海南省昌江黎族自治県委員会文史資料組編『昌江文史』 第5輯、1993年5月)には、つぎのように書かれています。
                                         佐藤正人

 “1939年9月に羌園村で抗日遊撃隊が組織された。隊長は盧建信で隊員は30人あまり、銃は15挺あった。
 1940年3月に50人あまりの日本兵が昌化河の対岸から発砲してきたが、河を渡ることができなかった。
 その10日後、300人あまりの日本兵が羌園村を包囲したが、遊撃隊は退路を開き、日本軍が村に侵入したときには村に人影はなかった。
 さらにその10日後の夜、100人あまりの日本兵が羌園村に侵入してきたが、すでに村人はすべて山に逃げていた。日本兵は、村を焼いた。
 そのあと、村人は「良民証」を受けとることにした。
 治安維持会がつくられ、保甲制度が実施された。
 日本軍は村人に望楼をつくらせた。女性をはずかしめた“。
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