■甲午農民軍・乙未義兵・義和団・活貧党の時代
一八九四年(甲午年)二月一五日、全琫準らが農民軍を組織して全羅南道古阜で烽起し、六月一日に全州城を占拠した。農民軍を鎮圧するために朝鮮政府は清国に軍隊派遣を要請し、六月五日に清国軍が朝鮮中部西海岸の牙山に上陸した。農民軍の基本主張は、「済世安民」・「逐滅洋倭」・「尽滅権貴」であった。
朝鮮政府は日本軍派遣を要請しなかったが、日本政府は六月二日に朝鮮への八千人の派兵を決定し、六月一〇日に海軍陸戦隊を朝鮮の首都漢城に侵入させた。
六月一一日に朝鮮政府は、農民軍の弊政改革案を受諾して「全州和約」を結んだ。清と日本の武力介入を回避するために農民軍が全州城を撤退したので、朝鮮政府は清と日本に軍隊撤兵を要請したが、清も日本も受け入れなかった。
七月二三日、日本軍が朝鮮王宮(景福宮)を占領した。この時の日本公使大鳥圭介は、「箱館戦争」のとき榎本武揚グループの一員で、逮捕拘禁ののち、榎本釈放のすこしまえに釈放され、「開拓使」の官僚になっていた。
七月二五日、牙山湾に近い豊島沖で、日本の艦船と清国の艦船が戦闘し、日本は八月一日に清国に宣戦布告した。以後、数か月間、朝鮮が清日戦争の戦場となった。
日本軍は、朝鮮で食料・物資・馬などをうばいつつ戦争を継続した。朝鮮民衆は、日本軍の徴発に抵抗した。
この年秋、農民軍は、朝鮮南部でふたたび、たたかいを開始した。日本軍が南下し、圧倒的な武力で農民軍に敵対した。清日戦争のさなかであった。農民軍は敗北した。全琫準は捕らえられ、一八九五年三月に処刑された。
一一月二一日午後旅順を占領した日本軍(乃木希典を師団長とする第一師団の歩兵第二連隊と歩兵一五連隊と歩兵二四連隊。総責任者大山巌)は、以後数日間、民家に侵入して住民大虐殺をおこなった。一八九六年に建てられた犠牲者を追悼する「万忠墓」の裏面には、「官兵商民男婦被難者一萬八百餘名」と書かれている。当時、日本のマスメディアはこの大虐殺をほとんど報道しなかったが、イギリスやアメリカ合州国の新聞は報道した。清日戦争後、一八九六年一〇月から乃木稀典は台湾総督となった(一八九八年二月まで)。
一八九五年三月三〇日に清国と日本は停戦し、四月一七日に講和条約が調印された(五月八日、批准書交換)。
この条約で、清国は、日本に台湾と澎湖諸島の支配権をわたした。日本政府は、ただちに台湾総督府を設置し、五月末に日本軍を上陸させた。以後、数十年間、日本軍と警察は、台湾各地で残虐な犯罪をおこなった。台湾の漢族も原住民も持久的にたたかいつづけた。
この年一〇月八日、駐朝鮮日本公使三浦梧楼(日本陸軍中将)を首謀者とする集団が朝鮮王宮に侵入し、国王高宗の妻(王后閔氏。一八九七年に明成皇后と改称)や宮内大臣らを残虐な方法で殺した。その集団の中心に、竹橋烽起のさいの背反者岡本柳之助がいた。
この年(乙未年)一二月、忠清北道、京畿道、慶尚北道などで、義兵が日本軍や政府軍との戦闘を開始した。乙未義兵のたたかいは朝鮮各地に拡大し、翌年秋までつづけられた。
一八九六年四月一日に、日本政府は、北海道と台湾にかんする「諸般の政務」を「管理」する拓殖務省を新設した。この年三月三〇日付けでだされた「拓殖務省官制」の第二条では「拓殖務省大臣は、台湾総督及び北海道長官を監督す」とされ、拓殖務省には、「北海道に関する事務を掌る」北部局と「台湾に関する事務を掌る」南部局とが置かれていた。このことは、当時、日本政府が明確に、北海道と台湾を日本南北の植民地だと認識・規定していたことを示している(同年に発行された『第一五回日本帝国統計年鑑』には、「日本帝国」の地域分類に「台湾及び北海道」という項目がつくられ、一九一〇年発行の『第二九回日本帝国統計年鑑』には、「北海道」、「台湾」、「樺太」に新たに「朝鮮」という項目が加えられている)。
一八九七年一〇月一一日、朝鮮国の国名が大韓帝国に変えられ、一二日に高宗の皇帝への即位式がおこなわれた。
一九〇〇年六月はじめ、清国の民衆組織義和団の反侵略運動に敵対する日本・ロシア・ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ合州国・イタリア・オーストリア八か国の軍隊が連合して清国に侵入した。連合軍兵士総数は二万人弱で、日本兵が四割(約八〇〇〇人)だった。連合軍とともに北京に侵入した日本軍は他国軍に先駆けて約三〇〇万両の馬蹄銀や三〇万石以上の玄米などを略奪した。それ以後、一九四五年八月まで、日本正規軍が中国から消えることはなかった。
朝鮮で、甲午年(一八九四年)の農民軍のたたかいを継承して一九世紀末から運動をすすめていた活貧党は、一九〇〇年一〇月ころ、「大韓四民論説一三条目」を政府に要求した。活貧党は、土地の均等分配、コメの日本への飢餓輸出禁止、外国商人の市場への出入り禁止、外国人に鉄道敷設権を譲渡しないことなどを求めていた。
キムチョンミ
一八九四年(甲午年)二月一五日、全琫準らが農民軍を組織して全羅南道古阜で烽起し、六月一日に全州城を占拠した。農民軍を鎮圧するために朝鮮政府は清国に軍隊派遣を要請し、六月五日に清国軍が朝鮮中部西海岸の牙山に上陸した。農民軍の基本主張は、「済世安民」・「逐滅洋倭」・「尽滅権貴」であった。
朝鮮政府は日本軍派遣を要請しなかったが、日本政府は六月二日に朝鮮への八千人の派兵を決定し、六月一〇日に海軍陸戦隊を朝鮮の首都漢城に侵入させた。
六月一一日に朝鮮政府は、農民軍の弊政改革案を受諾して「全州和約」を結んだ。清と日本の武力介入を回避するために農民軍が全州城を撤退したので、朝鮮政府は清と日本に軍隊撤兵を要請したが、清も日本も受け入れなかった。
七月二三日、日本軍が朝鮮王宮(景福宮)を占領した。この時の日本公使大鳥圭介は、「箱館戦争」のとき榎本武揚グループの一員で、逮捕拘禁ののち、榎本釈放のすこしまえに釈放され、「開拓使」の官僚になっていた。
七月二五日、牙山湾に近い豊島沖で、日本の艦船と清国の艦船が戦闘し、日本は八月一日に清国に宣戦布告した。以後、数か月間、朝鮮が清日戦争の戦場となった。
日本軍は、朝鮮で食料・物資・馬などをうばいつつ戦争を継続した。朝鮮民衆は、日本軍の徴発に抵抗した。
この年秋、農民軍は、朝鮮南部でふたたび、たたかいを開始した。日本軍が南下し、圧倒的な武力で農民軍に敵対した。清日戦争のさなかであった。農民軍は敗北した。全琫準は捕らえられ、一八九五年三月に処刑された。
一一月二一日午後旅順を占領した日本軍(乃木希典を師団長とする第一師団の歩兵第二連隊と歩兵一五連隊と歩兵二四連隊。総責任者大山巌)は、以後数日間、民家に侵入して住民大虐殺をおこなった。一八九六年に建てられた犠牲者を追悼する「万忠墓」の裏面には、「官兵商民男婦被難者一萬八百餘名」と書かれている。当時、日本のマスメディアはこの大虐殺をほとんど報道しなかったが、イギリスやアメリカ合州国の新聞は報道した。清日戦争後、一八九六年一〇月から乃木稀典は台湾総督となった(一八九八年二月まで)。
一八九五年三月三〇日に清国と日本は停戦し、四月一七日に講和条約が調印された(五月八日、批准書交換)。
この条約で、清国は、日本に台湾と澎湖諸島の支配権をわたした。日本政府は、ただちに台湾総督府を設置し、五月末に日本軍を上陸させた。以後、数十年間、日本軍と警察は、台湾各地で残虐な犯罪をおこなった。台湾の漢族も原住民も持久的にたたかいつづけた。
この年一〇月八日、駐朝鮮日本公使三浦梧楼(日本陸軍中将)を首謀者とする集団が朝鮮王宮に侵入し、国王高宗の妻(王后閔氏。一八九七年に明成皇后と改称)や宮内大臣らを残虐な方法で殺した。その集団の中心に、竹橋烽起のさいの背反者岡本柳之助がいた。
この年(乙未年)一二月、忠清北道、京畿道、慶尚北道などで、義兵が日本軍や政府軍との戦闘を開始した。乙未義兵のたたかいは朝鮮各地に拡大し、翌年秋までつづけられた。
一八九六年四月一日に、日本政府は、北海道と台湾にかんする「諸般の政務」を「管理」する拓殖務省を新設した。この年三月三〇日付けでだされた「拓殖務省官制」の第二条では「拓殖務省大臣は、台湾総督及び北海道長官を監督す」とされ、拓殖務省には、「北海道に関する事務を掌る」北部局と「台湾に関する事務を掌る」南部局とが置かれていた。このことは、当時、日本政府が明確に、北海道と台湾を日本南北の植民地だと認識・規定していたことを示している(同年に発行された『第一五回日本帝国統計年鑑』には、「日本帝国」の地域分類に「台湾及び北海道」という項目がつくられ、一九一〇年発行の『第二九回日本帝国統計年鑑』には、「北海道」、「台湾」、「樺太」に新たに「朝鮮」という項目が加えられている)。
一八九七年一〇月一一日、朝鮮国の国名が大韓帝国に変えられ、一二日に高宗の皇帝への即位式がおこなわれた。
一九〇〇年六月はじめ、清国の民衆組織義和団の反侵略運動に敵対する日本・ロシア・ドイツ・フランス・イギリス・アメリカ合州国・イタリア・オーストリア八か国の軍隊が連合して清国に侵入した。連合軍兵士総数は二万人弱で、日本兵が四割(約八〇〇〇人)だった。連合軍とともに北京に侵入した日本軍は他国軍に先駆けて約三〇〇万両の馬蹄銀や三〇万石以上の玄米などを略奪した。それ以後、一九四五年八月まで、日本正規軍が中国から消えることはなかった。
朝鮮で、甲午年(一八九四年)の農民軍のたたかいを継承して一九世紀末から運動をすすめていた活貧党は、一九〇〇年一〇月ころ、「大韓四民論説一三条目」を政府に要求した。活貧党は、土地の均等分配、コメの日本への飢餓輸出禁止、外国商人の市場への出入り禁止、外国人に鉄道敷設権を譲渡しないことなどを求めていた。
キムチョンミ