2008年3月、わたしたちは、安東MBCテレビの李貞姫記者ら取材班とともに、安東郡臥龍面の面事務所を訪ねました。
李貞姫記者は、1998年8月18日から22日まで慶尚北道安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをわたしたちが訪ねたとき同行取材し、つづいて8月29日から9月3日まで熊野市、紀和町、石原産業などで取材した記者です。その取材結果は、この年10月末に『紀伊半島に隠された真実』と題する1時間番組として韓国で放映されました。
1998年8月から9年半ぶりに再訪した臥龍面事務所で、千炳台さんの遺族の消息をたずねました。臥龍面事務所は、方法を尽くして調べてくれました。
ようやく遠い親戚(千炳台さんの兄千再呼さんの孫、千ソギュンさん)の電話番号を知ることができたので、電話をかけましたが、応答がありませんでした。
この日夜、安東MBCのニュースで、わたしたちが、安東市陶山面温恵洞の林聖煕さんをたずねているときのこと、紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめての追悼集会を開こうとしていることなどが報道されました。このニュースは、翌日朝、韓国全国で放映されました。つづいて、3月9日の紀州鉱山でのはじめての追悼集会のあと、3月12日夜、安東MBCが制作した「紀州鉱山の真実 その後10年……」と題するドキュメンタリーが、放映されました。
ことし2月2日安東でわたしたちは、2年前に知った千ソギュンさんところに電話をしてみました。すると、千ソギュンさんは不在でしたが、その母(千炳台さんの兄千再呼さんの子千相基さんの妻)が応答してくれました。千再呼さんも千相基さんも亡くなったが、千炳台さんの養子の千鳳基さんはお元気だとのことでした。
午後2時半、安東市内から、安東MBCの取材車で、李記者、カメラマンとともに千相基さんの家に向かいました。
安東市内から、冬枯れの山道をたどって20分あまり行ったところで、農作業をしていた人に道を尋ねると、その人が千ソギュンさんでした。
千相基さんの家で、子千相基さんの妻と千ソギュンさんに話を聞かせてもらいました。千炳台さんの死後、千相基さんの弟の千鳳基さんが千炳台さんの養子になり、ずっと墓を守っているとのことでした。
話を聞かせてもらったあと、千ソギュンさんに、千炳台さんが強制連行されたときに住んでいた家があった場所と、千炳台さんの墓に案内してもらいました。その途中、千相基さんの弟で千鳳基さん兄の千ヨンギさんが同行してくれました。
千炳台さんの家があった所は、村の中心の道に面したゆるやかな斜面にありました。あたりには、田が広がっていました。田には薄い氷が張っていました。千炳台さんの墓は、そこから100メートルほど離れた丘の中腹にありました。墓を覆っている冬の草は、きれいに刈り込まれていました。陽が沈みかけていました。そこで、千ヨンギさんは、
「ここに叔父の遺骨が埋められている。
叔父の遺骨が戻った日を命日にしている。
叔父の墓を守るために、弟の鳳基が養子になった。
叔父は「報国隊」で日本に行く2年たらず前に結婚したばかりで、まだ子どもがいなかった」
と話しました。
この日夜、MBCのテレビニュースの慶尚北道版で、わたしたちが、千炳台さんの遺族をたずねているときのこと、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が3月28日に追悼碑を建立しようとしていることなどが報道されました。
佐藤正人
李貞姫記者は、1998年8月18日から22日まで慶尚北道安東と軍威で紀州鉱山に強制連行された人たちをわたしたちが訪ねたとき同行取材し、つづいて8月29日から9月3日まで熊野市、紀和町、石原産業などで取材した記者です。その取材結果は、この年10月末に『紀伊半島に隠された真実』と題する1時間番組として韓国で放映されました。
1998年8月から9年半ぶりに再訪した臥龍面事務所で、千炳台さんの遺族の消息をたずねました。臥龍面事務所は、方法を尽くして調べてくれました。
ようやく遠い親戚(千炳台さんの兄千再呼さんの孫、千ソギュンさん)の電話番号を知ることができたので、電話をかけましたが、応答がありませんでした。
この日夜、安東MBCのニュースで、わたしたちが、安東市陶山面温恵洞の林聖煕さんをたずねているときのこと、紀州鉱山の真実を明らかにする会がはじめての追悼集会を開こうとしていることなどが報道されました。このニュースは、翌日朝、韓国全国で放映されました。つづいて、3月9日の紀州鉱山でのはじめての追悼集会のあと、3月12日夜、安東MBCが制作した「紀州鉱山の真実 その後10年……」と題するドキュメンタリーが、放映されました。
ことし2月2日安東でわたしたちは、2年前に知った千ソギュンさんところに電話をしてみました。すると、千ソギュンさんは不在でしたが、その母(千炳台さんの兄千再呼さんの子千相基さんの妻)が応答してくれました。千再呼さんも千相基さんも亡くなったが、千炳台さんの養子の千鳳基さんはお元気だとのことでした。
午後2時半、安東市内から、安東MBCの取材車で、李記者、カメラマンとともに千相基さんの家に向かいました。
安東市内から、冬枯れの山道をたどって20分あまり行ったところで、農作業をしていた人に道を尋ねると、その人が千ソギュンさんでした。
千相基さんの家で、子千相基さんの妻と千ソギュンさんに話を聞かせてもらいました。千炳台さんの死後、千相基さんの弟の千鳳基さんが千炳台さんの養子になり、ずっと墓を守っているとのことでした。
話を聞かせてもらったあと、千ソギュンさんに、千炳台さんが強制連行されたときに住んでいた家があった場所と、千炳台さんの墓に案内してもらいました。その途中、千相基さんの弟で千鳳基さん兄の千ヨンギさんが同行してくれました。
千炳台さんの家があった所は、村の中心の道に面したゆるやかな斜面にありました。あたりには、田が広がっていました。田には薄い氷が張っていました。千炳台さんの墓は、そこから100メートルほど離れた丘の中腹にありました。墓を覆っている冬の草は、きれいに刈り込まれていました。陽が沈みかけていました。そこで、千ヨンギさんは、
「ここに叔父の遺骨が埋められている。
叔父の遺骨が戻った日を命日にしている。
叔父の墓を守るために、弟の鳳基が養子になった。
叔父は「報国隊」で日本に行く2年たらず前に結婚したばかりで、まだ子どもがいなかった」
と話しました。
この日夜、MBCのテレビニュースの慶尚北道版で、わたしたちが、千炳台さんの遺族をたずねているときのこと、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会が3月28日に追悼碑を建立しようとしていることなどが報道されました。
佐藤正人