■抗日義兵の時代
一九〇四年二月八日夜、日本海軍が旅順港のロシア軍を奇襲攻撃し、二月一〇日に、日本政府は、ロシアに宣戦を布告した。
日ロ戦争開始二週間後の二月二三日、「大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助」と「大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔」が「日韓議定書」に調印した。その第四条は、「第三国ノ侵害ニ依リ若ハ内乱ノ為大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ……」というものであった。
五月三〇日、日本の元老会議は、韓国を「保護国」とする「対韓施設要綱」を決定した(五月三一日に閣議決定)。
八月二二日、日本軍占領下の韓国で、日本政府が、韓国政府に日本人を財政顧問にすることを強要するとともに韓国の外交権をうばおうとする「第一次日韓協約」が調印された。
一九〇五年一月二二日、ロシア帝国の首都サンクトベテルブルグで、日ロ戦争中止、憲法制定、基本的人権確立などを求めて皇帝の住居に向かう労働者に軍隊が発砲し、おおくの労働者を殺傷した。
ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた一九〇五年一月末、日本政府は、独島を日本領土とすることを閣議決定し、二月はじめに島根県は独島を島根県に編入した。大韓帝国政府がそのことを知ったのは、一九〇六年三月末であった。
九月五日、「日ロ講和条約」が調印された(一一月二五日、批准書交換)。ロシア政府は、「日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認」するとともに、日本がロシアに代わって遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。日本政府とロシア政府による自国の領土侵略にかんする不当な約束を、清国政府は日本との「満洲に関する条約」(一九〇五年一二月二二日調印、一九〇六年一月二三日批准書交換)で追認した。
また、ロシアとの「講和条約」によって、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この先住民族を無視した侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯五〇度線によって、「樺太島」に住む先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
一一月一七日に、日本政府は、韓国政府の五人の大臣(五賊)に「日韓交渉条約」(「第二次日韓協約」、「乙巳勒約」)を締結させ、大韓帝国から外交権をうばい、日本の「保護国」(植民地)とした。
一二月二〇日、日本政府は、韓国統監府を設置し、翌日、伊藤博文が韓国統監になった。
乙未義兵のたたかいをひきついで、一九〇六年五月に忠清南道で、六月に全羅北道、慶尚道、忠清道で抗日義兵が戦いを開始した。
一九〇七年二月、日本の足尾銅山で労働者が待遇改善、賃上げなどを要求してたたかいを開始したが、軍隊(高崎連隊の三個中隊)が出動し、三六〇人あまりが検挙されて敗北した。その後、夕張炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、生野鉱山でも労働者がたたかいを開始した。
七月三日、伊藤博文は、一九〇七年六月の「ハーグ密使事件」に韓国皇帝高宗が関与した「責任」を追及した。退位を迫られた高宗は、七月一九日に譲位の詔勅を発表し、翌日、高宗の一男純宗が韓国皇帝となった。
七月二四日、「第三次日韓協約(丁未七条約)」が締結され、日本人を韓国の政府官僚にすることが「合法化」され、また非公開で、大韓帝国軍解散と司法権・警察権の日本への「委任」が決められた。
八月一日、日本政府は、大韓帝国軍を解散させ、皇帝を護衛する小規模な近衛兵としての「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編する策動を開始した。その直後から、大韓帝国軍将兵の一部は、一九〇六年からたたかいつづけられていた義兵闘争に合流していった。
抗日義兵闘争は、拡大した。韓国駐剳軍(日ロ戦争開始直後から韓国に常駐していた日本軍)が、抗日義兵闘争をおさえようとして、義兵の根拠地と判断した朝鮮各地で住民を殺傷し、村を焼き、略奪をおこなった。
抗日義兵は、たたかいのなかで、多くの檄文を発した。たとえば、一九〇八年に、湖南義兵将金東晩は、「昨秋八月ヨリ今年九月ニ至ル迄汝等ノ死傷スル者多ク吾等ノ死傷スル者亦少カラス」、「天地汝ヲ悪ミ……我ヲシテ兵ヲ起シ義ヲ唱ヒ汝ヲ滅セシム汝滅亡セント欲セバ則チ我ニ対シテ接戦セヨ汝若シ保存セント欲セハ則チ撤還シテ東帰セヨ」という檄文をだしている(「日人ニ檄ス」、『秘 暴徒檄文集』〈緑蔭書房、一九九五年五月〉)。
一九〇八年一二月一八日に、東洋拓殖株式会社が設立された。天皇も株を所有するこの株式会社は、朝鮮人から土地をうばい、うばった土地で地主的農業経営をすすめた。
一九〇九年一〇月二六日、安重根が伊藤博文をハルビンで銃殺した。
キムチョンミ
一九〇四年二月八日夜、日本海軍が旅順港のロシア軍を奇襲攻撃し、二月一〇日に、日本政府は、ロシアに宣戦を布告した。
日ロ戦争開始二週間後の二月二三日、「大日本帝国皇帝陛下ノ特命全権公使林権助」と「大韓帝国皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍参将李址鎔」が「日韓議定書」に調印した。その第四条は、「第三国ノ侵害ニ依リ若ハ内乱ノ為大韓帝国ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危険アル場合ハ大日本帝国政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ……」というものであった。
五月三〇日、日本の元老会議は、韓国を「保護国」とする「対韓施設要綱」を決定した(五月三一日に閣議決定)。
八月二二日、日本軍占領下の韓国で、日本政府が、韓国政府に日本人を財政顧問にすることを強要するとともに韓国の外交権をうばおうとする「第一次日韓協約」が調印された。
一九〇五年一月二二日、ロシア帝国の首都サンクトベテルブルグで、日ロ戦争中止、憲法制定、基本的人権確立などを求めて皇帝の住居に向かう労働者に軍隊が発砲し、おおくの労働者を殺傷した。
ロシアの大規模艦隊が日本に向かっていた一九〇五年一月末、日本政府は、独島を日本領土とすることを閣議決定し、二月はじめに島根県は独島を島根県に編入した。大韓帝国政府がそのことを知ったのは、一九〇六年三月末であった。
九月五日、「日ロ講和条約」が調印された(一一月二五日、批准書交換)。ロシア政府は、「日本國カ韓國ニ於テ政事上、軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認」するとともに、日本がロシアに代わって遼東半島南部(「関東州」)と「満鉄附属地」を植民地(「租借地」)とすることを承認した。日本政府とロシア政府による自国の領土侵略にかんする不当な約束を、清国政府は日本との「満洲に関する条約」(一九〇五年一二月二二日調印、一九〇六年一月二三日批准書交換)で追認した。
また、ロシアとの「講和条約」によって、日本は「樺太島」の南半分を植民地とした。この先住民族を無視した侵略国間の条約によって「国境線」とされた北緯五〇度線によって、「樺太島」に住む先住民族の生活圏・労働圏が分断された。
一一月一七日に、日本政府は、韓国政府の五人の大臣(五賊)に「日韓交渉条約」(「第二次日韓協約」、「乙巳勒約」)を締結させ、大韓帝国から外交権をうばい、日本の「保護国」(植民地)とした。
一二月二〇日、日本政府は、韓国統監府を設置し、翌日、伊藤博文が韓国統監になった。
乙未義兵のたたかいをひきついで、一九〇六年五月に忠清南道で、六月に全羅北道、慶尚道、忠清道で抗日義兵が戦いを開始した。
一九〇七年二月、日本の足尾銅山で労働者が待遇改善、賃上げなどを要求してたたかいを開始したが、軍隊(高崎連隊の三個中隊)が出動し、三六〇人あまりが検挙されて敗北した。その後、夕張炭鉱、幌内炭鉱、別子銅山、生野鉱山でも労働者がたたかいを開始した。
七月三日、伊藤博文は、一九〇七年六月の「ハーグ密使事件」に韓国皇帝高宗が関与した「責任」を追及した。退位を迫られた高宗は、七月一九日に譲位の詔勅を発表し、翌日、高宗の一男純宗が韓国皇帝となった。
七月二四日、「第三次日韓協約(丁未七条約)」が締結され、日本人を韓国の政府官僚にすることが「合法化」され、また非公開で、大韓帝国軍解散と司法権・警察権の日本への「委任」が決められた。
八月一日、日本政府は、大韓帝国軍を解散させ、皇帝を護衛する小規模な近衛兵としての「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編する策動を開始した。その直後から、大韓帝国軍将兵の一部は、一九〇六年からたたかいつづけられていた義兵闘争に合流していった。
抗日義兵闘争は、拡大した。韓国駐剳軍(日ロ戦争開始直後から韓国に常駐していた日本軍)が、抗日義兵闘争をおさえようとして、義兵の根拠地と判断した朝鮮各地で住民を殺傷し、村を焼き、略奪をおこなった。
抗日義兵は、たたかいのなかで、多くの檄文を発した。たとえば、一九〇八年に、湖南義兵将金東晩は、「昨秋八月ヨリ今年九月ニ至ル迄汝等ノ死傷スル者多ク吾等ノ死傷スル者亦少カラス」、「天地汝ヲ悪ミ……我ヲシテ兵ヲ起シ義ヲ唱ヒ汝ヲ滅セシム汝滅亡セント欲セバ則チ我ニ対シテ接戦セヨ汝若シ保存セント欲セハ則チ撤還シテ東帰セヨ」という檄文をだしている(「日人ニ檄ス」、『秘 暴徒檄文集』〈緑蔭書房、一九九五年五月〉)。
一九〇八年一二月一八日に、東洋拓殖株式会社が設立された。天皇も株を所有するこの株式会社は、朝鮮人から土地をうばい、うばった土地で地主的農業経営をすすめた。
一九〇九年一〇月二六日、安重根が伊藤博文をハルビンで銃殺した。
キムチョンミ