三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

2月25日

2010年02月26日 | 紀州鉱山
 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑の除幕集会の日(3月28日)が迫ってきました。
 きのう(2月25日)、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部・在日本大韓民国民団三重県地方本部・紀州鉱山の真実を明らかにする会のメンバーと友人たちが、熊野市紀和町に集まって、「追悼の場」で「作業」をしました。
 昨年7月に、紀和町の中心部に土地を購入していらい、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会は、そこを「追悼の場」としていくための「作業」を重ねてきました。
 「追悼の場」の中心に置く石を探して、なんどとなく紀和町の旧紀州鉱山周辺や尾鷲などをたずねましたが、昨年中には決めることができませんでした。
 ことし1月25 日に、ようやく紀和町丸山千枚田の近くの石を選ぶことができました。
 きのうは、その石を、「追悼の場」に置き、その石にはめ込む碑文板の大きさと位置を決めました。
 そのあと、参加者全員が、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名前を、1人ずつ、石に書きました。
 また、「追悼碑建立宣言」を掲示する板の土台をつくりました。

 参加した友人の1人、徐文平さんは、「追悼碑建立宣言」の最後に、
    「わたしたちは、この追悼碑をひとつの基点として、紀州鉱山から生きて故郷にもどることができなかったみなさん、
   海南島で死んだ朝鮮人、そしてアジア太平洋の各地で日本政府・日本軍・日本企業によって命を奪われた人びとを
   追悼し、その歴史的責任を追究していきます」
と書いてあるのを読んで、
    「追悼碑の建立は、新たな運動の出発だと自分も思う」
と話しました。徐文平(서문평  ソムンピョン)さんは、積水ハウスの社員ですが、勤務中に顧客から受けた自己の名前にかかわる悪意に満ちた発言に対して、2006年7月に「在日社員本名裁判」を提起した人です。この裁判は、1年後、被告が謝罪して終わりました。
 きのう、わたしたちは、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人ひとりひとりの名を石に書きいれましたが、姓がわからない人が何人もいました。日本政府・朝鮮総督府が、かつて、朝鮮人に創氏と改名を強制していたからです。
 わたしたちがこれまで見ることができた紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の名を記した文書は、紀州鉱山の朝鮮人について石原産業が三重県内務部に提出した報告書(これをわたしたちは「紀州鉱山1946年報告書」とよんでいます)、紀和町小栗須の慈雲寺の本堂に置かれている「紀州鉱業者物故者諸精霊」と書かれた箱に入っている『紀州鉱業所物故者霊名』と題された書き物、石原産業株式会社が1955年につくった『従業物故者 忌辰録』という「会社創業以来の物故者」の名簿などしかありません。これらの文書だけでは、本名を知ることができない人がいます。
 この人たちの名をはっきりさせることも、これからの紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会の課題のひとつです。
                                             佐藤正人
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