1月22日にこのブログに掲載した追悼碑建立宣言の最終案に、
「朝鮮の故郷から強制連行されて、一か月後に命を失った人もいました」
と書いてありますが、その人の名は、「海山應龍」さんです。
石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」では、「海山應龍」さんの本籍地は江原道平昌郡平昌面烏屯里、「入所日」は1945年1月21日、「死亡日」は1945年2月20日と書かれています。
「海山應龍」さんの本名は、ことし1月22日の時点ではわかりませんでした。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、ことし2月1日に、江原道平昌郡に行き、「海山應龍」さんの遺族を探しました。
まず、平昌郡庁を訪ね、民願課戸籍係に、「海山應龍」さんの遺族のことを調べてもらいましたが、「海山」という姓(日本占領期に創られた氏)では調査のしようがなく、「應龍」という名だけでは、検索できないとのことでした。
郡庁にある戸籍簿は、すべて電子化されているが、平昌邑事務所には原簿があるのでわかるかもしれないというので、郡庁から歩いて10分ほどの平昌邑事務所に行きました。
しかし、平昌邑事務所の民願課戸籍係にくわしく調べてもらっても、わかりませんでした。戸籍原簿のほとんどは、朝鮮戦争の時に消失してしまった、とのことでした。
それで、烏屯里に行って見ることにしました。
平昌バスターミナルから堤川方面に行く平昌川の右岸沿いの道を3キロほど下って右折して4キロほど山のほうに、氷の張った棚田が左右に見える道を進むと鳥屯里に着きました。
バスを降りて、ゆるやかなのぼり坂になっている村の道を登って、高齢者の方が住んでいる家をたずね歩きましたが、「應龍」さんのことを知っている人には出会えませんでした。
もと来た道を下って、老人会館に向かいました。大きな松の木が3本立っている丘の上に老人会館はありました。
老人会館に登る道の入り口で、通りがかった70歳くらいの人に、日帝時代に日本の紀州鉱山に強制連行された「應龍」さんを知らないか、と訊ねました。
その人は、「應龍」さんの甥の申永洙さんでした。「海山應龍」さんの本名が申應龍さんだということがわかりました。鳥屯里に着いてから50分ほどたった午後1時ころでした。
老人会館のすぐ下にある申永洙さんの家で、くわしく話を聞かせてもらいました。
申永洙さんに、紀州鉱山で亡くなった方の名簿を見てもらうと、金學錄さんも江原道平昌郡平昌面薬水里のひとだということがわかりました。薬水里は烏屯里の隣村です。金學録さんの名は、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれておらず、わたしたちは、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』のなかで発見しました。石原産業が日本厚生省に1946年に提出した「紀州鉱山1946年報告書」は、紀州鉱山で死亡した千炳台さんが「逃亡」と書かれているなど、極めてズサンな報告書です。
申永洙さんのおじの申應龍さんと薬水里の金學録さんの遺骨は、1945年以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきたそうです。
申永洙さんに偶然出会い、話を聞かせてもらうことによって多くのことを知ることができました。
申永洙さんと別れ、申應龍さんの遺骨が埋められたという烏屯里の旧共同墓地に行きました。そこは、川沿いの細長い村の全景を見渡すことができる山腹にありました。
夕方、烏屯里から薬水里まで1時間ほど歩き、村人に金學録さんのことを訊ねました。遠い親戚の人が村にいるが、いまは、龍平(ヨンピョン)に働きに行っているとのことでした。
佐藤正人
「朝鮮の故郷から強制連行されて、一か月後に命を失った人もいました」
と書いてありますが、その人の名は、「海山應龍」さんです。
石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」では、「海山應龍」さんの本籍地は江原道平昌郡平昌面烏屯里、「入所日」は1945年1月21日、「死亡日」は1945年2月20日と書かれています。
「海山應龍」さんの本名は、ことし1月22日の時点ではわかりませんでした。
紀州鉱山の真実を明らかにする会では、ことし2月1日に、江原道平昌郡に行き、「海山應龍」さんの遺族を探しました。
まず、平昌郡庁を訪ね、民願課戸籍係に、「海山應龍」さんの遺族のことを調べてもらいましたが、「海山」という姓(日本占領期に創られた氏)では調査のしようがなく、「應龍」という名だけでは、検索できないとのことでした。
郡庁にある戸籍簿は、すべて電子化されているが、平昌邑事務所には原簿があるのでわかるかもしれないというので、郡庁から歩いて10分ほどの平昌邑事務所に行きました。
しかし、平昌邑事務所の民願課戸籍係にくわしく調べてもらっても、わかりませんでした。戸籍原簿のほとんどは、朝鮮戦争の時に消失してしまった、とのことでした。
それで、烏屯里に行って見ることにしました。
平昌バスターミナルから堤川方面に行く平昌川の右岸沿いの道を3キロほど下って右折して4キロほど山のほうに、氷の張った棚田が左右に見える道を進むと鳥屯里に着きました。
バスを降りて、ゆるやかなのぼり坂になっている村の道を登って、高齢者の方が住んでいる家をたずね歩きましたが、「應龍」さんのことを知っている人には出会えませんでした。
もと来た道を下って、老人会館に向かいました。大きな松の木が3本立っている丘の上に老人会館はありました。
老人会館に登る道の入り口で、通りがかった70歳くらいの人に、日帝時代に日本の紀州鉱山に強制連行された「應龍」さんを知らないか、と訊ねました。
その人は、「應龍」さんの甥の申永洙さんでした。「海山應龍」さんの本名が申應龍さんだということがわかりました。鳥屯里に着いてから50分ほどたった午後1時ころでした。
老人会館のすぐ下にある申永洙さんの家で、くわしく話を聞かせてもらいました。
申永洙さんに、紀州鉱山で亡くなった方の名簿を見てもらうと、金學錄さんも江原道平昌郡平昌面薬水里のひとだということがわかりました。薬水里は烏屯里の隣村です。金學録さんの名は、石原産業の「紀州鉱山1946年報告書」には書かれておらず、わたしたちは、石原産業の『従業物故者 忌辰録』と慈雲寺の『紀州鉱業所物故者霊名』のなかで発見しました。石原産業が日本厚生省に1946年に提出した「紀州鉱山1946年報告書」は、紀州鉱山で死亡した千炳台さんが「逃亡」と書かれているなど、極めてズサンな報告書です。
申永洙さんのおじの申應龍さんと薬水里の金學録さんの遺骨は、1945年以前に、いっしょに日本から故郷に運ばれてきたそうです。
申永洙さんに偶然出会い、話を聞かせてもらうことによって多くのことを知ることができました。
申永洙さんと別れ、申應龍さんの遺骨が埋められたという烏屯里の旧共同墓地に行きました。そこは、川沿いの細長い村の全景を見渡すことができる山腹にありました。
夕方、烏屯里から薬水里まで1時間ほど歩き、村人に金學録さんのことを訊ねました。遠い親戚の人が村にいるが、いまは、龍平(ヨンピョン)に働きに行っているとのことでした。
佐藤正人