三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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1941年12月8日 12

2010年02月28日 | 海南島
 ■2009年12月18日に書きこんだ「1941年12月8日 11」の続きです。

 1941年12月8日に、ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、アジア太平洋全域を戦場とする対アメリカ合州国・イギリス戦争を開始し、侵略地域をいっきょに拡大しはじめた。
この日ヒロヒトがだした「詔書」には、
    「天佑ヲ保有シ万世一系ノ皇祚ヲ践タル大日本帝国天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス」、
    「朕茲ニ米国及英国ニ対シテ戦ヲ宣ス。……億兆一心国家ノ総力ヲ挙ゲテ征戦ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラム
   コトヲ期セヨ」、
    「帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為、蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破砕スルノ外ナキナリ」、
    「朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ、祖宗ノ遺業ヲ恢弘シ、速ニ禍根ヲ芟除シテ東亜永遠ノ平和ヲ確立シ、以テ帝
   国ノ光栄ヲ保全セムコトヲ期ス」
と書かれてあった。「自存自衛」、「東亜永遠ノ平和」のため、アメリカ合州国とイギリスに対して宣戦したというのである。日本民衆の大人のほとんどがこの「詔書」を支持し、子どもたちは支持させられた。
 1941年7月28日、日本軍兵士約4万人が海南島の三亜から「仏領印度」南部(ベトナム南部・カンボジア)に侵入し、占領を開始した。その3週間前の7月2日に、ヒロヒトらは、「南方進出」のさいに「対英米戦を辞せず」という方針を決定していた(「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」)。
 ヒロヒト・日本政府・日本軍中枢は、1941年11月の時点で、12月上旬のパールハーバーのアメリカ合州国艦船攻撃、コタバル奇襲上陸、香港侵入を決定するとともに、アジア太平洋全域の占領を計画していた。
 海南島における日本海軍の「Y5作戦」(1941年11月25日~1942年1月25日)は、そのあらたな国民国家日本の侵略戦争の一環だった。
                                           佐藤正人
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