三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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西截村で 4

2007年06月19日 | 西截村
 『万寧抗戦歳月』(全5章)の第1章は「西截村“九・七”大惨案」、第5章は「罕見的万寧大飢荒」です。
 日本占領末期の万寧における大飢饉にかんしては、ほかに、『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』に、卓冠亜「路多凍死骨 万寧一九四四年大飢餓惨况」と蔡徳佳・文雲程・何文漢「万寧大飢荒紀実」が掲載されています。
 「路多凍死骨 万寧一九四四年大飢餓惨况」には、
   “1944年に発生した大飢饉によって、この年の冬から翌年春までの半年たらずの間に、
  万寧全県で41820人が餓死した。これは当時の万寧県総人口の1/4以上であった”
と書かれています。
 「罕見的万寧大飢荒」には、万寧県で日本侵略者によって18530人が殺され、1944年の大飢饉によって41820人が餓死した、と書かれています。
 万寧大飢饉の調査・研究は、海南島においてもあまりなされておらず、犠牲者を41820人とした調査が、いつどのようになされたのかは、はっきりしていません。

 西截村で蔡東太さんが、「両親が殺されたので、生活していくのが難しかった。わたしは、まだ7歳だったが地主の家で働いた。飢饉のとき、2番目の兄と弟が死んだ。日本兵を見つけたら殺したい」と静かな口調で言いましたが、万寧大飢饉の根本原因は、台風や旱魃や虫害などではなく、日本の海南島侵略でした。
 万寧地域でも日本軍は、1939年いらい、軍用道路や軍用施設建設に農民を強制的に働かせて農作業の時間を少なくし、多くの村を襲撃・破壊して蔡東太さんの両親のように働く人の命を奪い、農地を荒廃させ、「現地調達」と称して日本兵の食料とするためにコメや豚や牛や鶏を奪って農民の備蓄を不可能にしました。
 日本軍が、アジア太平洋戦争をふくむ他地域・他国侵略の過程でおこなった「現地調達」の実態は、まだほとんど明らかにされていません。
 ことし1月に、月塘村南方10キロほどの豊丁村で、文学山、文開吉さん、陳世華さんは、つぎのように話しました(このブログの2月3日の書きこみを見てください)。
   “1944年春にはほとんど雨がふらず、害虫が大発生した。秋には、大きな台風が3度も来
  た。1945年春には、食べるものがなくなった。日本軍が、コメや豚や鶏などを盗っていった
  ので、村では1944年春ころから餓死する人がふえてきた。豊丁村だけでなく、この付近の村
  ではどこでもそうだった。餓死するまえに腹がふくらみ、そのときなにか食べさせると、吐
  いて死ぬ。1944年秋から1945年にかけて、ねずみが増え、ノミやシラミが増え、皮膚病や疱
  瘡やコレラで苦しむ人が多くなった。
   日本軍は、自分たちの食べるコメや牛を日本から運んできてはいなかった。海南島では、
  1年に3回コメがとれるのだから、日本軍が来て海南島のコメや牛や豚や鶏や魚を食べなかっ
  たら、あんなにたくさんの人が餓死することはなかっただろう”。
                                 佐藤正人
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