5月25日に、月塘村から直線距離で北15キロほど、バスで1時間ほどの和楽鎮発興村(旧西截村)に行きました。
蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、
“龍滾を拠点とする日本軍部隊の兵士100人あまりが、1939年10月19日(農歴9月7日)
に、西截村を襲撃し、115人を殺害した”、
と書かれています。
発行されたばかりの林承鈞・謝漢波『万寧抗戦歳月』(中共万寧市委党史研究室、2007年5月、内部発行)をもらいました。その第1章「西截村“九・七”大惨案」には、
“農歴9月7日、日本軍は西截村を襲って大虐殺をおこなった。子どもをふくむ村民が、
西截村で107人、東截村で21人が殺された。37人が刺されたがいのちはとりとめることが
できた”、
と書かれています。 佐藤正人
蔡徳佳・林国齋「日本占領万寧始末――制造“四大惨案”紀実」(万寧県政協文史弁公室編『万寧文史第5輯 鉄蹄下的血泪仇(日軍侵万暴行史料専輯)』1995年7月)には、
“龍滾を拠点とする日本軍部隊の兵士100人あまりが、1939年10月19日(農歴9月7日)
に、西截村を襲撃し、115人を殺害した”、
と書かれています。
発行されたばかりの林承鈞・謝漢波『万寧抗戦歳月』(中共万寧市委党史研究室、2007年5月、内部発行)をもらいました。その第1章「西截村“九・七”大惨案」には、
“農歴9月7日、日本軍は西截村を襲って大虐殺をおこなった。子どもをふくむ村民が、
西截村で107人、東截村で21人が殺された。37人が刺されたがいのちはとりとめることが
できた”、
と書かれています。 佐藤正人
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