三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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西截村で 3

2007年06月18日 | 西截村
 蔡朝家さん(1920年生)は、
   「わたしの家は6人家族だったが、3人が日本軍に殺された。わたしは、日本軍が村に入っ
  てきたとき家の外にいて、すぐ気づいたので椰子の樹にのぼった。樹の上から、日本兵がた
  くさんの村人を殺すのを見た。椰子の樹には身体を隠すほど場所がなかったので、日本兵に
  見つかるのではないかと思って、とても怖かった。その怖さをいまでも忘れることができな
  い。あのとき見つからなかったので、いまも生きている。
   とくに強くこころに残っているのは、日本兵が蔡王海の頭を日本刀で切ったときのこと
  だ。あたりが血だらけになった。1人の日本兵が首を切ったあと、さらに、もう1人が腹を
  刺した」
と話しました。

 海南島の農村に住む50歳代以上の漢族のなかには、普通語を話したり聞きとったりできない人がすくなくありません。
 5月の13回目の海南島での「現地調査」のときに、わたしたちは、海南語だけを話す人から話を聞かせていただくことがしばしばでした。
 西截村のある和楽鎮の南隣りの后安鎮の后安村で生まれ育った林彩虹さん(「労働研修生」として日本で2年半、低賃金で働いた)が同行してくれたので、わたしたちは、海南語だけを話す人の証言をより正確に理解できたと思います。
 林彩虹さん自身も、海南語のほうが普通語より身近だと言っていました。
 西截村でも月塘村でも、聞きとりをしているとき、いつのまにか、林彩虹さんが、証言者との対話を深め、当時のことやその後のことを海南語で、聞きとりの場にいる人みんなと話し合うことがしばしばでした。
 聞きとりをしているとき、証言のリアリティは、証言者と聞きとりをする人との関係のありかたによって規定されるということを、いつも痛感します。
 蔡春究さんも蔡東太さんも蔡朝家さんも、海南語だけをつかって生きてきた人でした。
                                 佐藤正人
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