新井用水は、播磨町の大池へ
明暦2年(1656)3月に今里伝兵衛によって開発された新井用水は、約1年と言う短期間で完成させましたが、すべてが順調に進んだのではありません。
加古川大堰(加古川市神野町西条)のところで取りこまれた水は、現在の播磨南中学のところの大池まで13キロ。難工事の連続でした。
(加古川市)野口で東に向きを変えた新井は、播磨町の大池を目指し伸びています。
新井用水の逆サイホン
そうすると、途中、喜瀬川を越えなければなりません。
そのため、当時としては驚くべき技術が採用されました。
喜瀬川の下に樋を埋めて、水を対岸に流そうとするサイホンの技術です。
大中遺跡から喜瀬川の右岸に沿って300メートルほど下ると、右側の土手下にフェンスに囲まれた見慣れない機械があります。
ここが、新井(用水)が喜瀬川の下をくぐるところです。
新井用水は、現在まで、350年間にわたって流域の田畑に恵みを与え続けています。
新井の開削は、日岡山付近の山麓の岩盤掘など難工事の連続でした。
喜瀬川の埋樋は、「新井の逆サイホン」と呼ばれています。
新井は、ここで喜瀬川の下へ潜り込み、再び対岸で地上に出ます。
現在のサイホンはコンクリート製で堅牢ですが、開通時は松の三寸(約10センチ)板製で、この松製のものは14・5年ごとに更新されていていました。
石製に変わったのは天保元年(1830)頃ですから、11回ほど取り替えられています。(no4659)
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