ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

播磨町をゆく(4) 大中(3)・大澤小学校(だいたくしょうがっこう)

2019-05-28 10:25:59 | 播磨町をゆく

       学制(がくせい)
 時代は、江戸時代から明治時代へとかわりました。

 世界に目を開いた日本は、その遅れを取りもどすために、まず教育に力を注ぎます。
 そして、明治5年(1872)8月「・・・・一般の人民は、必ず不学の戸なく、家に不学の人がいないようにする・・・」という大目標をかかげて教育の普及につとめました。
 これが「学制」です。
 この学制が実施された3年後の明8年には、全国に24,225の小学校がつくられました。
 しかし、就学率は3割程度であったといわれています。
    大澤小学校(だいたくしょうがっこう)
 この、学制により、播磨町域で最初につくられたのが大澤(だいたく)小学校でした。

 大澤小学校は、大澤、野添、二子(ふたこ)、古田、東中野、山之上(やまのうえ)を学区として、現在の大中の善福寺境内に開設されました。
 こうした初期の学校は寺院の一隅や民家を使って始められ、教員は二名か三名がふつうでした。
 まさに、「明治版・寺子屋」です。
 新政府は、火の車で、施設その建設費は国や県から支給されません。苦肉の策として多くの場合、寺が利用されました。
 それに、小学校といえども現在と異なり授業料50銭が必要でした。
 ですから、苦しい生活の中で学校制度反対運動も各地でおきています。
 明17年(1884)には大澤、本荘の両小学校が合併して、阿閇(あえ)小学校と改称され、明治33年(1900)、現在の播磨小学校の地に、木造校舎の阿閉尋常小学校が建てられました。
 なお、戦後の昭和21年(1946)、阿閇村立阿閇小学校と名称が変わり、昭和22年、六・三制により、阿閇中学校(現:播磨中学校)が阿閇小学校を仮校舎に開校されました。
 現在、善福寺の境内には大澤小学校跡を示す石碑(写真)が建てられています。(no4656)
 *『播磨町の歴史』(「歩いてみよう播磨町の歴史」を編集する会)参照

 *『播磨町町歩きマップ』(ヘリテージ加古)参照
 *写真:大澤小学校跡を記念する石碑(善福寺境内)

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