播磨町をゆく(1)
もう一度、播磨町(加古郡播磨町)を歩きます
シリーズ「別府町をゆく」は、少しお休みにして、新しいシリーズ「播磨町をゆく」をはじめます。
「別府町をゆく」は、原則「播磨町をゆく」と1週間ごとの交互の連載とします。
とりあえず、来週の土曜日まで「播磨町をゆく」の連載です。
播磨町の各地域の名称のこと
時代は、江戸時代から明治時代にかわりました。
時代は変わったのですが、明治の初めの集落名は江戸時時代のままでした。
つまり、当地域の村々は、東本庄村・西本庄村・宮北村・野添村・古宮村・大沢村・東中野村・経田村・古向村・宮西村・二子村でした。
が、明治5年から7年にかけて政府の町村費用の節約方針があり、当地域の村々も合併が進められました。
その結果、明治8年から9年にかけて、東本庄村・西本庄村・宮北村が合併して「本庄村」に、大沢村・東中野村が「大中村」に、そして経田村と古向村が合併して「古田村」と名称を変えました。
蛇足です。「古田村」の名称です。古向村の「古」と経田村の「田」をつなぎ合わせた名称としました。
阿閇村(明治22年4月1日)誕生
そして、22年4月1日、新しい町村制により、本庄村・野添村・古宮村・大中村・古田村・二子村が合併して阿閇村(あえむら)が誕生しました。
「阿閇村(あえむら)」の名称ですが、播磨町の地区は、『播磨風土記』、『和妙抄』で、「阿閇津」「阿閇庄」と呼ばれていたようで、この古い土地名をとって「阿閇村」としました。
播磨町(昭和37年4月1日)
なお、昭和37年4月1日、新しい町村制で名前を「播磨町」として現代に至っています。(no4653)
*図:『兵庫県市町村合併史(上)』(兵庫県)参照
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