中道子山城の築城者は、いろいろな説はありますが謎のままです。
きょうの説はど素人の私の妄想としてお読みください。
「火のないところに煙は立たない」といいます。地元に伝わる、孝橋新五郎(たかはししんごろう)説を考えてみました。
大河内満直改め孝橋新五郎説
赤松の本流(本家)は、円心・則祐・義則・満祐と続き、満祐のおこした嘉吉の乱でいったん消滅しました。
この時、誰もが赤松の再興を考えられませんでした。
しかし、赤松一族の再興に立ち上った赤松一族がいました。
赤松一族の支流、大河内家です。
大河内家は、天神山城を拠点としたため「天神山系」と呼ばれています。
大河内家は、初代・満則が神崎軍の大河内庄をもらって姓を大河内と変えました。大河内家の初代は、円心の三男・則祐の三男です。
ですから、赤松本流と非常に近い家柄です。
その大河内家は、嘉吉の乱の後でした。
あろうことか、満祐と近い家柄にかかわらず、幕府軍とともに満祐討伐軍に加わったのです。
理由は、このまますべての赤松一族が敗れてしまう。完全な赤松一族の消滅となる。
「一部でも赤松一族が残っておれば、赤松再興の可能性はある」と考えた末の苦しい行動だったようです。
事実、その後の大河内家は、赤松家の再興を秘めた行動でした。
大河内家は、初代満則、二代目友則、三代目満則、四代目満直と続きます。
大河内家は衰微します。四代目満直の時(享徳3年:1454)に、志方へ移っています。
天神山の三代城主・大河内満政は、幕府軍とともに満祐を討伐する側に加わったことが認められて、明石・加古・印南の播磨東三郡(別の場所の説もある)を与えられていまから、志方へ移ったのは息子の満直ですが、東播磨に経済的基盤があったのでしょう。
志方へ移り住んで、名前を考橋新五郎と変えたらしいのです。
中道子山城を築いた一つの説は(赤松)満直だと考えます。
播磨三郡を抑える拠点として、城山を築いたのでしょう。
いかがですか・・・(no3461)
◇きのうの散歩(11.346歩)
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