ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

お爺さんが語る郷土の歴史(179) 赤松一族の興亡(9)・後期の赤松一族

2018-05-18 08:23:51 | お爺さんが語る郷土の歴史

 城山(中道子山城)の歴史はいろいろな説があります。

 しかし。嘉吉の乱の後の赤松一族の歴史を見ていると、赤松一族は本格的な中道子山城を築城する余力があったとは考えられないのです。

 今日は嘉吉の乱以後の赤松の歴史を簡単にたどっておきます。

   後期赤松一族 

    *赤松円心~満祐までを前期赤松一族と呼んでいます

 嘉吉の乱で、六代将軍・義教(よしのり)を謀殺した赤松満祐(あかまつ・みつすけ)は自害しました。

 それを確かめて、満祐は自害しました。

 この時、赤松氏が再び復活するとは、誰も考えたものはいなかったと想像されます。

    赤松政則の誕生、そして赤松家復活

 しかし、偶然にもその年、満祐につながる子供(次郎法師丸)がかくまわれていたのです。

 彼は、後の赤松政則です。

 家臣連中が次郎法師丸を担いで赤松家再興の動きに出ます。

 南朝方が持っている三種の神器の一つである神璽を取り返して北朝に納めれば赤松氏の復活を認めるという将軍家との密約ができました。

 *神璽(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)

 この神璽奪回作戦に成功し、赤松家は奇跡的な復活を遂げます。

      そして、赤松家没落

 赤松は、置塩城を拠点に政則を柱として、勢い回復しました。

 しかし、山名が赤松に襲いかかりました。(「置塩」の場所を図で確認しておいてください)

 真弓峠の戦い(1477)では惨敗で、播磨は山名に占領されてしまいました。

 その後の播磨は、しばらく血なまぐさい戦場と化しました。

 その後、長享年二年(1488)、なんとか山名勢を追い出すことに成功します。

 政則は、赤松家の勢力を保つために細川家に近づき、再婚相手として細川家の洞松院(どうしょういん)を迎えました。

 そして、政則の娘・松に養子・義村を迎え赤松家を託しました。

 ところが、事態は暗転します。

 明応六年(1497)四月二十五日でした。

 政則は鷹狩のために滞在していた加西郡坂井庄の長円寺で心臓発作のため、あえなく亡くなってしまいます。政則は42才でした。

 政則の政治力があってこその赤松一族の結束でした。

 赤松家が盤石なものとなっていない段階での無念の他界でした。

 こうなると、お決まりの一族内での下剋上が始まりました。

 紙面の関係上、年表を追うことにします。

       赤松家、没落の年譜 

 ・明応八年(1499)   赤松一族のナンバー2であった浦上則村が赤松家の乗っ取りをはかる。

 ・永正四年(1507)   義村と洞松院(妻の松は洞松院と共謀)の対立が深まる。

 ・永正十五年(1518)  義村は浦上追討の兵をあげる。

 ・大永二年(1522)   義村は室津の寺に幽閉され殺害される。

       則房の代で赤松惣領家消滅

 復活を遂げた赤松家も、赤松政則の死後、一族間の争いにより衰退してゆきます。

 政則を継いだ義村は、室津の寺に幽閉され殺害されてしました。

 その後、息子の晴政は父の敵打ちに成功するものの、次の則房の時代には守護職も失い、秀吉の傘下に組み込まれます。

 そして、天正13年(1585)屋島で戦果をあげ阿波の地に新天地を得ました。

 赤松惣領家は播磨を離れます。阿波に移って13年目の慶長三年(1598)、則房は病魔に侵され、ひっそりと他界しました。

 歴史は、赤松氏の最後を赤松則房としています。

 この後、赤松総領家は廃絶同然となりました。

 これが、「赤松一族の盛衰記」です。(no3460)

 *写真:「置塩城への登り口」

 ◇きのうの散歩(10.563歩)

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