信長、石山本願寺を攻める
信長は、天下統一の拠点として、石山本願寺の地を要求しました。
信長は、この要求は簡単に片付くものと考えていたようですが、本願寺は、元亀元年(1570)から天正八年(1580)まで、雑賀軍(さいかぐん)と一向宗の信仰に支えられ、頑強に信長に抵抗し続けました。
とちゅう、二回の講和・休戦はあったものの、信長は、ほぼ10年間、本願寺との戦いに足を取られたことになります。
これでは、天下統一のプログラムがくるってしまったのも当然でした。
雑賀の戦い
石山本願寺との戦いは泥沼状態に陥りました。
そこで、信長は、天正5年(1577)2月、10万人の大軍を率いて、石山本願寺軍の中心勢力の雑賀衆の本拠地・雑賀郷を攻撃することを計画します。
雑賀郷(さいかごう)の場所については、地図で確認ください。
(現在の和歌川が雑賀川で、丸印が現在の和歌山市の中心地です)
信長軍は、10万の勢力で雑賀郷を攻めたといいます。
雑賀軍は、海辺や紀ノ川河口部の雑賀川(現:和歌川)にしかけた障害物、さらに鉄砲隊と海軍力で信長軍をさんざんに翻弄しました。
2週間、持ちこたえ、そのまま和睦へと持ち込みました。
雑賀川の戦いは、「毛利軍来る」の偽情報により、途中で信長は兵を引き、天正5年(1577)3月、雑賀川の戦いは終わりました。
信長軍が撤退すると、本願寺方は、「仏の加護により信長軍に勝利した」と意気は大いに上がりました。
この戦いに、東播磨から別所長治(三木城主)、別所重棟(三木城二番家老)、神吉頼定(神吉城主)、櫛橋政伊(志方城主)等が信長軍として参戦しました。
この雑賀川の戦いは、鉄砲術にすぐれていたとはいえ雑賀軍は少数でした。
当然、雑賀軍はゲリラ戦にならざるを得ません。(no3467)
*地図:『戦国鉄砲・傭兵隊(鈴木眞哉著)』(平凡社新書)参照
◇きのう(5/24)の散歩(11.473歩)
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