「城山の歴史」を知るために、赤松一族の歴史から始めます。舞台は西播磨が多くなりますがご辛抱ください。
「赤松円心」までの赤松の歴史は空白
赤松一族について、一般的な説明書は、「・・・赤松氏は村上天皇につながり、その皇子・具平(ともひら)親王の王子師房(もろふさ)が源姓をもらって村上源氏の一翼を担い、さらにその曽孫師季(もろすえ)が政変に敗れて播磨国佐用庄へ流されてきた。この師季が赤松氏の初代となる。・・・」のように説明しています。
これらの説明は、伝承といってよく、赤松円心の以前の歴史は、はっきりしません。
まさに、赤松円心則村(以下「円心」とする)は、歴史に突如登場しました。
赤松一族については、研究が進んでいるようです。
でも、現在のところ、円心までの赤松氏の系譜は、嘘といわないまでも「空白」とするのが妥当のようです。
円心は「悪党」?
(赤松)円心が突如、播磨に登場しました。
そして、円心を語るとき、枕詞のように「悪党」として描かれることが多いようです。
「悪党」は、「悪ガキ」という意味ではなく、「反体制として行動する人々」のという意味です。つまり、鎌倉幕府から見て、赤松は、まさに好ましくない「悪党」です。
円心は、確かに、悪党を支配下にして活動することが多かったようです。
「悪党」は、時には略奪等荒々しい行動をする反面、交通路・港湾を支配し年貢の輸送・売買に当たっていました。
円心は、鎌倉幕府打倒を目指した後醍醐天皇方として活躍して、建武の新政では目覚ましい活躍をします。
しかし、御醍醐天皇の「建武の新政」は、公家を重視する政治が行われ、恩賞に不満を持つ武士もいました。新政に対して不満が高まりました。
新政で活躍した円心への処遇もまさに冷遇でした。
「播磨守護」に任じられたものの3ヵ月で解任されます。
その原因は、後醍醐天皇に対立した皇子・護良(もりよし)親王の失脚とも関係しています。
円心は、護良親王に従って行動しています。
やがて、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗をひるがした時、円心は、当然のように足利尊氏と共に行動をしました。
建武の新政は、2年余りで崩れ。尊氏は、室町で新政権(室町幕府)を打ち立てました。
円心は、室町時代の立役者として中央政界で、大活躍することになります。
しかし、赤松氏の栄光は、長く続きません。突如終焉がやってきました。(no3452)
*写真:赤松円心像(宝雲寺蔵)
◇きのう(5/9)の散歩(11.032歩)
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