なかなか、加古川地方が登場しない。
すこしたいくつになっておられると想像するので先を急ぎたい。
官兵衛が妻をめとるのは、永禄十年(1567)、二十二才の時である。
御着城主・藤兵衛はよほど職隆(もとたか)と官兵衛を頼みにしていたようである。
*御着城主は、代々「藤兵衛」と呼ばれた。このときの城主は小寺政職(まさもと)である。
官兵衛の妻は志方城主の娘
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藤兵衛が官兵衛にめあわせたのは、彼の姪であった。
播州の志方村を領する小さな城主で、櫛橋豊後守の娘である。
櫛橋氏も播州の豪族がたいていそう称しているように赤松氏の支族であった。
いずれにせよ備前から流れてきた家のせがれには、もったいないような話である。
藤兵衛にすれば、黒田の家も、土地に根ができて心強かろう」と、心を配ったあげくのことである。
もっともうちわったところは、黒田氏のためというより、このようにして一番家老(官兵衛門の父・職隆のこと)の心をつなぎとめて、この乱世を切り抜けたいということにあったのかもしれない。
・・・・(以上『播磨灘物語』より)
官兵衛の姫路城は?
志方城主の娘・幸圓(こうえん)について、少し纏めて紹介しておきたい。
きょうのブログでは官兵衛の妻は、志方城の娘であることだけを確認して、あとは蛇足である。
「姫路城」のことである。今後の話の中で混乱があるかもしれないので書いておきたい。
官兵衛の生まれたのは姫路城であるが、小寺の御着城ではない。
今の姫路城の場所に小さな構(かまえ)があり、そこで彼は生まれた。
後に秀吉がその場所に城を築き、さらに、江戸時代・池田氏が今の姫路城を築いたのである。
官兵衛の時代は、御着城の西を守るための小さな建物にすぎなかった。
*写真:志方城跡にある観音寺(志方町志方町、しかたちょう・しかたまち)