ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(28):鳥町の戦い

2012-12-19 00:04:05 | 黒田官兵衛

  三木城つよし

Jigenjitemmple_019野口合戦の前に「鳥町(三木城下の集落)」の戦いについて、書いておきたい。

この戦いについては、読み本として脚色された『播州太平記』に面白い話がある。

「加古川評定」の後、毛利側に味方した三木城に押しよせた羽柴秀吉は、鳥町(三木市鳥町)に陣を構え、三木城をせめた。

鳥町は三木城の北西にある。

三木城の下を流れる美嚢川(みのがわ)が加古川に流れ込む中間あたりを北に歩くと山にぶつかる。その山すそと崖の上に鳥町の集落がある。

三木方は、東播の支城に連絡し、はさみ討ちにする計画を進めた。連絡する方法がなかなかみつからなかった。

足軽を乞食の姿に仕立てて、敵陣を通り、加古川を高砂まで下って、高砂城(高砂市)をはじめ野口城、神吉城、志方城(いずれも加古川市)に応援を頼んだ。

天正六年1578四月四日夜、高砂城の兵は加古川の西の堤を進んだ。野口、志方、神吉城の兵も駈けつけ、総勢千人余の軍勢になった。

翌、四月五日戌の刻(午後八時)、一番手に櫛橋(志方軍)、二番手に長井(野口軍)、三番手に神吉(神吉軍)、軍奉行に梶原(高砂軍)と定め、明かりも灯さず、ひそかに忍び寄った。

秀吉勢は、昼間の戦いの疲れと酒に酔って熟睡しているところへ、どっと斬り込んだ。秀吉軍は、驚いて逃げまどい、総崩れになった。

そこに、三木城からも約千人が討って出たので、秀吉勢は散々の大敗であった。

以上が、『播州太平記』に描かれた「鳥町の戦い」の内容である。

事実とだいぶ異なっていると思えるが、秀吉軍が三木城の出方をけん制するため軍を送り大敗した。

秀吉は、三木城が、美嚢川(みのがわ)に張り出した台地上の要害の地にあり、攻撃が容易でない上に、各支城とのたくみな連絡に驚いた。

   野口城の攻撃へ

そのため、秀吉は作戦を練り直した。

三木城を取り巻く支城を先に潰し、三木城を裸にして攻め上げようとする作戦である。

もちろん、この作戦に官兵衛もかんでいた。

秀吉:どの城からつぶすのがよいであろう。

官兵衛:野口城がてごろかと思われます・・・

こんな会話があったのかもしれない。

決まれば、秀吉の行動ははやい。三千の兵を率いて書写山を出た。

野口城へ軍をすすめた。

*写真:鳥町の公会堂と神社(この辺りで戦闘があったのか)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(27):別府城の戦い⑤・別府城はどこに

2012-12-18 00:14:17 | 黒田官兵衛

   

   別府城はどこに

 『播磨灘物語』から別府城の戦いのようすを見た。

 次に、別府城はどこにあったかというが問題が残る。

別府城は、秀吉の家臣により建物・土塁・堀等のすべてが壊され、その跡は不明である。

 しいて推測をしてみたい。

候補地として、播磨町の蓮華寺・別府町西町(イトーヨーカ堂の西)・宝蔵寺の東(西脇の字屋敷)そして、別府町元町の4カ所がその候補地に挙げられている。

ここでは、蓮華寺と別府西町の八幡神社を除外したい。その理由は、地形は、現在と変わっているとしても、海から少し離れている。別府城跡の候補地としては弱い。

   

    別府城は西脇にあったか?

 1522438f播磨町の『広報はりま』の「播磨ヒストリア」は、次のように説明している。

「・・・阿閇城(正式には別府の阿閇の城)は宝蔵寺東隣(加古川市別府町2丁目)にあったようです。(右図参照)

西脇は、旧東西本庄、宮西村などがある阿閇庄の村でした・・・」

この別府城、西脇説であるが、別府城がこの場所にあったとするなら、西となりの宝蔵寺のことがすこし気になる。

ここが別府城跡とするなら、記録類が焼失したにせよ何らかの伝承が宝蔵寺に残ると思うが、別府城の戦いに繋がる伝承は何も伝わっていない。

別府城は別府町元町にあったか?

少し話題を広げてみたい。江戸時代、別府から高名な俳人がでた。瀧瓢水(たきひょうすい)である。瓢水の祖先の話をしておきたい。

瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれた。父は、瀧新右衛門仲春といった。家は、現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂のあたりで、約100m四方の広大な屋敷を構えていた。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていた。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができる。

 瀧家は、三木合戦で籠城した。落城(天正8年・1580)後は、現在の加東市滝野町で暮らしたが、瓢水の祖父の時に別府村に移った。

 別府合戦の後、別府城は取り壊され、広い跡地が残された。

 瀧家は、そこに屋敷を構え、商いを始めたと想像するのである。史料があっての話ではない。

*図:別府城跡(西脇説・「播磨ヒストリア」より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(26):別府城の戦い④・官兵衛勝利す

2012-12-17 08:46:38 | 黒田官兵衛

   

    別府城の合戦、秀吉軍勝利す

 ・・・(別府城の)望楼は官兵衛を載せて、しらじらと明けはじめた空に浮かんでいる。

 海浜には、毛利・雑賀の兵がふえている。

 官兵衛の視界には、海浜をおおっている松原でさえぎられていたが、それでも人数の推定はできた。

 「・・・・二千人か」と、官兵衛が踏んだのは、海浜にいる人数である。

 船でなおも、到着しつつあった。

 夜が明けきって海面が白く光ったとき、淡路島の北端から播州海岸にいたるまでの海面に、ゴマをまいたように船が浮かんでいた。

 どの船も軍兵を満載し、この別府の海岸にむかってすすんでいた。

 ・・・・「撃つな」

 官兵衛は城兵に厳命してある。城を静まりかえらせて、敵が城壁にとりつくのをひたすらに待つのである。

 勇気が要った。

 Photo ・・・ついに寄せ手が土塁や石垣に取りついたとき、官兵衛はいっせいに撃たせたのである。

 ・・・・寄せ手はさんざんに撃ち白(しら)まされ、逃げ散り、また押しかえし、堀ぎわなどで漂うような動きをみせたとき、官兵衛は城門をひらき、三百人の突撃隊を突出させた。

 ・・・・

 官兵衛は思った。敵は内陸へ入るのがこわかったのであり、さらにいえば、上陸作戦は、いわば三木城への義理だけのもので、義理である以上、撤退しても目的は十分果たせたのである。

 官兵衛は、兵力をほとんど損傷することなく勝利者になった。

   

    母里太兵衛のデビュー戦

 官兵衛が、子飼いで育ててきた母里太兵衛(もりたへえ)が、その指揮者だった。

 後年、黒田節という今様でその逸話をうたわれた母里太兵衛が、武名を世間に知られるようになるのはこの時からである・・・

*写真:博多人形「母里太兵衛」

 以上が『播磨灘物語』(司馬遼太郎)が描く、別府城の戦である。司馬氏は別府城を加古川市別府町とした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(25):別府城の戦い③・官兵衛大活躍

2012-12-16 09:12:46 | 黒田官兵衛

  

 別府城は、現在の加古川市別府町

別府村について、『播磨鑑』には、「阿閇庄(あえのしょう)別府村」とあり、『播州名所巡覧図絵』に、「別府、本庄村(現:播磨町)の西の村にて阿閇庄なり」とある。

 別府がもと阿閇庄内(現:播磨町)に属していたことがわかる。

 別府は、その昔、阿閇の一部の村であった。

 「別府は加古川市・・・・」という我々の思い込みから地名・地域の混乱が生じる。

 このことを念頭におき、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)をさらに読みたい。(一部省略)

なお、阿閇村・別府村の呼称については「別府城の戦い」の最後で検討することにする。

    

    官兵衛大活躍!

Befu_025_2  ・・・毛利軍は水軍の運用に長じていた。かれらは、はるかな根拠地から水軍でやってきて、意外な場所に船団を着け上陸作戦をやる。

 ・・・官兵衛は、阿閇の別府城の望楼にのぼって敵の来襲を待っていた。夜は、まだ明けない。

 海面は暗いが、敵の動きはわかる。対岸の淡路島の岩屋から、無数の火が押し寄せてくる。

 かれらは、夜中に播磨灘を押し切って、夜明けに上陸しようとしているのである。

  ・・・

「敵は八千」という情報がとどいていた。

 「敵の目的は何か」と官兵衛は考えていた。

 おどしか、本気か、本気なら目的は何か。

 敵の作戦家がたてた計画は、こうであるに違いない。

八千で印南野(いなみの)に押しこみ、秀吉の軍を震撼させる。(別府城を落した後)秀吉の軍が騒いでも目もくれず西方へゆき、空城同然の姫路城をおとす。

 秀吉の軍が、驚いて三木城の囲みを解いて姫路へ救援にかけつける。

 そこで野外決戦をおこなう。三木城の城兵は、城外突出して秀吉軍の背後をつく。

 「考えそうなことだが、戦はそうはうまうまとゆかぬものだ」と官兵衛は、思っている。

 敵にとって最初の戸口であるこの別府城がよく防げば、その作戦(毛利軍の作戦)は根底からくずれてしまう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(24):別府城の戦い②、毛利・雑賀連合軍で!

2012-12-15 10:54:15 | 黒田官兵衛

 ちょっと復習!

 三木城主・長治の父の別所安治は、若干39歳で病没した。その時、長治はまだ12才であった。

 三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治のを後見することになったが、後に、三男・重棟は信長に近づき賀相と袂を分かった。

 以上を予備知識として、『播磨灘物語』(司馬遼太郎)を続ける。(一部省略)

   

   毛利軍きたる 毛利・雑賀連合軍で

Befu_022 ・・・別府を領していたのが、今度の争乱(三木合戦)で織田方についている別所重棟であった。

 この別府に、小城があった。

 この時期、別所重棟が、ここを守備している。

 重棟は、兄の賀相と不仲ということが主因とになって、織田方に属している・・(省略)・・そこに、毛利軍が水軍によって運ばれてきたのである。

 毛利軍といっても、大坂の本願寺に加担している紀州雑賀(さいが)党もこれに加わっていたから、毛利・雑賀の連合軍といっていい。

 雑賀党は、大坂の湾から出ている。

 毛利軍は、はるか西の広島あたりから出ている。

 それらが、淡路の岩屋で結集し、多数の軍船をそろえて、別府の浜にむかって漕ぎだしたのである。

 その模様は、当然、別府城で察知できた。

 別所重棟は秀吉に救援を乞うた。

 「どうするか」

 秀吉は、(黒田)官兵衛に問うた。秀吉の本心を言えば、重棟では心もとない。

 「私が、行ってまいりましょう」

 手勢のみをつれ、(官兵衛は)いわば単身というに近い形で行くという。

 そのかわり、秀吉の代官ということで指揮権を得た。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(23):別府城の戦い①・毛利軍きたる

2012-12-15 08:22:05 | 黒田官兵衛

   余話・歴史と小説

2523df41「別府城の戦い」をみていくが、先に結果を書いておきたい。

天正六年四月一日、毛利軍が三木方支援のために別府城(現:加古川市別府町)を攻めた。

この時、秀吉は参戦していないが、秀吉側は官兵衛の指揮により、毛利軍を海に押し返した。

それに対する信長からの感謝状『黒田家文書』が残っている。

この文書は、「別府城は、信長側に味方した三木城の二番家老、別所重棟が守っていた。

毛利方が雑賀衆(さいがしゅう)の応援を得て攻めよせたが、官兵衛の指揮により毛利方を撃退した。よくやった」という内容である。

 これだけでは、味気ない。別府城の戦いのようすがよくわからない。

そこで、わずかに残された記録等から事実を膨らませ、料理したのが小説である。

司馬氏は『播磨灘物語』で、官兵衛について史料から知り得た歴史的事実をばらまき、膨らせ、料理をして我々に提供している。

「官兵衛がゆく」では、その小説から多くをお借りしている。したがって、このシリーズで紹介している内容は、学問的な事実ではない。

あくまでも、司馬氏の想像である。

不遜なことであるが、私の想像もちょっとだけ加味させていただいている。

細部の事実は、誰もわからないというのが事実である。

そのつもりで、いろんな想像をしながら読んでいただきたい。

別府の戦いは、ほとんど『播磨灘物語』からの引用であるので蛇足を付け加えさせていただいた。

   別府城の戦い①  *『播磨灘物語(司馬遼太郎)』(講談社)より

 ・・・明石から高砂にかけての長大な海浜は、謡曲でしられているように、白砂清松がつづいている。

 和歌や謡曲などによってとくに高砂の尾上の松原が有名になったが、松原の緑の重なりの濃さと砂浜の白さにおいては、むしろ明石・高砂の中間にある阿閇(あえ)の辺りが見事であるかもしれない。

 その阿閇(あえ)に、別府という海浜の村がある。

 このあたりは海岸線が単調ながら、別府あたりでわずかに小湾をなし、船泊まりができる。

 この小湾を古くは御杯江(みつきえ)といったり、阿閇の津の江といったりした。

 この戦国時代のころでは単にこの小湾を、「べふ」と土地では呼ぶ。

 ・・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(22)・書写山を本陣に

2012-12-14 15:56:56 | 黒田官兵衛

   書写山・円教寺を本陣に

E0f46a62秀吉は「加古川評定」で、三木方を味方に抱き込むことはできなかった。

彼は、官兵衛と(竹中)半兵衛に相談した。

秀吉軍は、三木・毛利軍との戦いには兵力が不足するため、信長に援軍を要請することにした。

そうなれば、秀吉と援軍を収容する場所がない。

「どうすればよいか・・・」

官兵衛は、毛利の水軍を考えていた。海から遠く山上の書写山円教寺(えんぎょうじ)を秀吉にすすめた。

秀吉も同じことを考えていた。

書写山は、姫路から北西へ一里半、370㍍の山上にある。

比叡山の延暦寺、伯耆の大山寺とともに天台宗の三大道場である。

(天正六年・1578)三月六日、秀吉軍は書写山に移動した。

書写山の僧たちは、おどろき、一斉に逃げだした。

書写山の僧たちの頭には、信長の比叡山・延暦寺の焼き打ちと3000人を皆殺しにした恐怖があった。

労せずして、陣営を確保することができた。

ここで、三木攻めの軍議をひらき、作戦をねった。

それにしても、秀吉にとって天正六年は、年初めから慌ただしい日々が続いた。

    上杉謙信死す

書写山に移動したのが(天正)六年三月六日であった。

三月九日に上杉謙信が倒れ、十三日に四十九才で亡くなった。脳卒中と言われている。

上杉謙信は、京を目指し、毛利や反信長勢力にその旨を伝え、すでに準備が整っていた。

このニュースは、まもなく信長・秀吉につたわった。

信長は、ついていた。北の脅威から解放されたのである。

五年前の武田信玄の死に続き、上杉謙信の死である。謙信の死により、本願寺との戦いは続いているものの、毛利との戦いに戦力を割くことができるようになった。播磨へ兵を押し出す状況ができた。

    野口の戦いへ

書写山にある秀吉の兵は、信長の援軍が到着するまで、休むことをしなかった。援軍を待つ間に、抜けるところは抜いておきたかった。

目標になったのが野口城である。

野口の戦いは四月十三日に始まる。が、その前に状況が変わった。

毛利軍が、三木方の支援のため別府城(現:加古川市別府町)に兵を繰り出してきたのである。

「野口の戦い」の前に「別府の戦い」を先にみておきたい。

*写真:書写山・円教寺(摩尼殿・まにでん)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(21):加古川評定③・別所氏、毛利氏に走る

2012-12-14 07:26:27 | 黒田官兵衛

   秀吉の思わくは?

Syomyoujitemmple_013官兵衛は、加古川評定にかけていた。

(別所)長治にも「加古川まで来てくださいませんか」と説得した。

しかし、播州最大の勢力を持つ別所氏は、評定に先だって毛利への加担を決めていたようである。

評定の当日、秀吉は会場になる加古川館の奥の間で別所氏を待っていた。

「別所どのご来着でございます」と玄関から秀吉に知らせがあった。秀吉は「長治(別所城主)どのか・・」と問い返した。

「別所どのは、ご家老の賀相(よしすけ)とご家臣の三宅・・・」と聞いて、秀吉は失望し、この時点で新たな戦略に切り替えたのかもしれない。

「・・・信長は秀吉に対し、もし別所がそむくなら討て、と暗喩したかもしれない。秀吉は、その種の事をあまり好まぬ男だったが、信長に仕える以上、荒事が出来(しゅったい)するのもやむをえないとひそかに覚悟していたに違いない・・・」は、『播磨灘物語』からの引用である。

つまり、「別所が信長にそむくのなら、それもよし、力で播磨をねじ伏せるまで・・・」、と考えていたのであろう。信長は、そんな戦略をこのんだ。

来るべき毛利軍とのたたかいの途中で態度を急変させられてはかなわない。そのため、この評定では、別所氏に対し妥協はなかった。

以下の『播磨灘物語』の加古川評定は、もちろん司馬氏の想像である。

加古川評定

85c638f8  ・・・いよいよ秀吉が広間にあらわれ、評定がはじまった。当然ながら秀吉は正面にいる。

 播州者は、みな秀吉をあるじであるがごとくに秀吉にむかい、はるかに下がって居ならんでいる。

 「なぜ、我々はみな羽柴ごとき者を主のように仰がばならぬ・・・・」と、どの男も、この位置関係に不満を持ち、別所賀相のごときは「ちょっと、厠に・・・・」とつぶやき、ゆっくり腰を上げて、そのまま部屋を出て小一時間帰ってこなかった。

 評定も進みつつあった時である。賀相に言わせれば、「下郎上がりが、何を間違えて、かかる座にすわっておるのか・・・」と言いたかったところであろう。

 「厠に・・・」といったが賀相は、そのまま門前に出、そこで待たせてあった供の者を連れ、その辺を一巡し、ひまをつぶした。

 ・・・・この後、もとの席に帰り、重臣の三宅に長々と戦法を講釈させた。

 たまりかねた秀吉は「よく承った・・・」と長談義を中断させ、「・・・戦のかけひきは、大将である自分(秀吉のこと)がそれを仕る。各々方は、わが指図のとおり動いて下さればよい」・・・(『播磨灘物語』より・一部文章を変えています)

 賀相は、三木に帰り、この評定のようすを城主・長治や重臣たちに伝えた。「・・・秀吉の態度は、まことに無礼であった・・」と。

三木(別所)は、毛利へ走った・・・

その後、別所家は直ちに籠城の準備を始めた、時間稼ぎをしている。

信長に「毛利との合戦では、三木城の守りを固めるために普請を行いたいと」申し出て、許可を得ている。加古川評定後の情報は、まだ混乱していたようである。

*この評定は、加古川城で行われた。写真上:称名寺、下図は加古川城近辺の小字名。「城の開地」が城跡と想像できる。『加古川市史(第二巻)』参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(20):加古川評定②・賀相 vs 重棟

2012-12-13 14:01:26 | 黒田官兵衛

   

     賀相 VS 重棟

Photo三木城のお家事情を話しておきたい。

三木城主・別所長治(べっしょながはる)の父の別所安治は、若干39歳で病没した。その時、長治はまだ12才であった。

そのため、三木方の政治は、安治の次弟・賀相(よしすけ)と三男・重棟(しげむね)が長治の後見をすることになった。

「加古川評定」に入り前に、この二人の関係について少し触れておきたい。

とにかくこの二人は、ことごとく対立し、三木城にあってそれぞれの派閥をつくっていた。

城主・別所長治により近くにいたのは、賀相であり重棟は早くから織田方に近づいていた。

以下『播磨灘物語』から引用したい。

「加古川に集まれ」という羽柴秀吉の命令を別所長治に伝えたのは官兵衛ではなく、二番家老の別所重棟である。

重棟は、兄の賀相とは違い早くから織田に接近し、今度の「加古川評定」においても、秀吉のそばにあって、その支度方(したくがた)をつとめている。

ほとんど秀吉の家来のようであるといってよい。

・・・(略)・・・

「あの馬鹿が」と賀相は重棟のことをいう。

「織田誇り(おだぼこり)をしおって」

織田の天下になれば、当然、早くから織田に接近している重棟の方が別所家における大勢力をつくることになり、賀相の勢力は転落せざるをえない。

「たれが織田につくものか」という賀相の肚の中で黒煙りを立てて渦巻いている感情は、打算的には家中の一向宗を抱き入れておかねばならないという理由の外に、その理由を凌ぐほどの、重棟に対する感情があった。

賀相に露骨にいわせるとするならば、自分の目の黒いうちは別所の家を織田に味方させぬぞ、ということであったであろう。(以上『播磨灘物語』より)

こんな感情を引きずって、賀相は、別所長治に代わって『加古川評定』に臨んだ。

*写真:三木城模擬城壁

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(19):加古川評定①・加古川城で!

2012-12-13 00:01:17 | 黒田官兵衛

   加古川評定① 加古川城で!

Syomyoujitemmple_007秀吉は、上月・福原の小さな山城を陥落させた。

陥落させた上月城には、毛利に攻められ、お家再興を目指す尼子衆700を入れた。

秀吉は、信長への報告のために、いったん近江安土に帰ったのである。天正五年十二月の中旬であった。

秀吉が播州を留守にしている間に、播州の諸豪族の間に不穏な動きが生じていた。

年が明けてしばらくすると播州勢のほとんどが毛利方に翻るという事態になった。

毛利の工作のためでもあるが、主に播州という土地柄にも原因があった。

秀吉軍は、福原・上月城を陥落させたが、播州の諸豪族は「これもつかの間で、やがて、毛利が奪還するであろう・・・」と考えていたし、播州は真宗の影響が強く、本願寺に敵する信長を「仏敵」として、門徒衆が信長方に味方することを許さない地盤であった。

その上に、播州の諸豪族は、家門の上下・家柄という意識に縛られていた。信長・秀吉という筋目のない者の下に着くことをよしとしなかった。

   三木・別所氏は毛利方に!

この情勢に官兵衛は、秀吉に早期の播磨入りを要請した。

秀吉は、急ぎ播磨入りを決め、加古川で評定(会議)を開くことの触れを出した。

秀吉は、7500人を率いて加古川の糟谷の館(加古川城)向かった。天正六年(1578)二月二十三日のことである。

加古川城主は糟谷武則で、播州では珍しく信長・秀吉側に味方する態度を鮮明にしていた。

加古川城のあった場所は、加古川西高校のおよそ300㍍東で、現在そこに称名寺(写真)がある。

この会議の焦点は、播州最大の勢力を誇る三木城主・別所氏がどちらに味方するかにかかっていた。

三木・別所氏が信長方に味方すればすんなり、他の領主もそれに倣ったであろうが、この加古川評定の始まる前に、別所氏は毛利氏への加担を決めているような態度が読みとれた。

*写真:加古川城跡にある称名寺

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(18):上月城・福原城の戦い

2012-12-12 12:01:10 | 黒田官兵衛

   

  播磨騒然

260pxkozuki_castle_2秀吉の姫路入りにより播州の諸豪族は、不満を持ちながら、表面上は秀吉に従っていた。

しかし、公然と秀吉に反した城が二つあった。

上月城(こうづきじょう)と福原城である。

場所は、ともに佐用郡にある。佐用郡は備前に接し、毛利方としても秀吉の播磨入りにより最前線となった。

福原氏も上月氏も秀吉の説得に応じなかった。秀吉にとっては、なんとしても落とさなければならない城であった。

ともに、城主と言うには余りにも小さく、秀吉と対抗できる勢力ではないが、バックに備前・備中・美作に勢力を持つ宇喜多直家がいた。

福原・上月と宇喜多の連合軍がまとまともにぶつかれば、秀吉の軍としても持ちこたえることはできない。

   

   福原城の戦い

天正五年(1577)十一月二十六日(終わったのは二十八日)福原城を攻めた。

『黒田家譜』によれば、官兵衛この戦いで「孫子の兵法」を用いたという。

孫子の法とは「敵と戦う場合、全部をふさいでしまうのではなく、一方に逃げ場をつくっておくと、敗戦が濃厚になると敵兵は、そこから逃げ出し、味方の犠牲が少なくて済む・・」という兵法である。

福原城の戦いでは、官兵衛のこの兵法が見事に功をそうした。

   

   上月城の戦い

上月城の戦いは、翌年にもあるのでここでは「第一次上月城の戦い」である。

(第二次上月城の戦いと尼子氏については後日紹介する)

秀吉軍は福原の城を落した勢いで、二十八日、上月城に攻め込んだ。

毛利・宇喜多方も上月城が生命線と考えていたらしく、宇喜多直家は3000の援軍を送った。小出しである。

宇喜多軍は、秀吉軍に追い詰められ、多数の犠牲者をだし備前に追い返された。

上月城は落ち、城主・上月政範は自害した。

戦いの後、城内に残っていた兵ばかりか女、子どもを捕らえ、国境で女は磔に、子どもは串刺しにされ、およそ200名が殺された。見せしめのためであった。

さすがに『黒田家譜』はこの虐殺については書いていない。書けなかったのであろう。以下は、想像である。

この虐殺は、秀吉の意思で行われたのであり、官兵衛・半兵衛に相談はなかった。

官兵衛・半兵衛(福原・上月攻めに竹中半兵衛も参戦している)は、戦国武将であるが、こんなむごいことができる人間ではない。

もう一つ、彼がこの虐殺に加わっていない理由が想像できる。

   

   上月城主の妻は、幸圓(官兵衛の妻)の姉

上月城主・上月政範の妻は志方城主・櫛橋伊定の娘である。

先に紹介したように櫛橋の次女が官兵衛の妻・幸圓(本名:光)であり、上月城主の妻は、幸圓の姉であった。

官兵衛と上月政範は義兄弟になる。

官兵衛は、秀吉の許しを得て、姉と二人の子供(女児)の命を助けている。

官兵衛としては、この事件に知らぬふりをするのが精いっぱいであったとおもわれる・・・・

*写真:城山(兵庫県佐用郡佐用町上月)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(17):お城をさしあげます

2012-12-11 00:03:39 | 黒田官兵衛

秀吉は、阿弥陀村から姫路へ向かった。当然一行は、市川の手前の御着城の近くを過ぎる。

御着城は、小寺政職(まさもと)の城であり、官兵衛が家老の城である。

本来は、秀吉の宿所になるべき城であったが、そうならなかった。

城主、政職が嫌ったのである。

しかし、挨拶に出てくるぐらいは当然であるが、それもなかった。

秀吉は、心の中で「なぜじゃ」と腹を立てていたが、この時の官兵衛の気持ちを推しはかって、我慢をした。口に出さなかった。

秀吉は、「小寺(政職)は、毛利に気を使っている。信長に従うことを決めかねている・・・・」と空気を読んだ。

お城を差しあげましょう

001姫山(現在の姫路城の場所)の小さな丘に館がある。官兵衛の城である。

秀吉一行は、姫山に入った。

秀吉は「いい城だ」とほめた。構えの立派さではなく、内心戦略的な地理をほめたのである。

官兵衛は、うれしくなかった。石がけもない、みすぼらしい城であった。

官兵衛は、秀吉と一緒に歩きながら「この城を差しあげましょう」と、声に出した。

秀吉は、一瞬聞き間違ったのかと思い、「この城を貸してくれるのか・・・」と聞き返した。

官兵衛は、「貸すのではありません。あなた様に差し上げます」とはっきりと言うのである。

「そなたはどうするのじゃ」と聞くと「私は、父の隠居所の国府山(姫路市妻鹿)へ移ります」というのであった。

024決意は固く、事はそのように進んだ。

御着城では、領主・政職をはじめ、官兵衛を非難する声が日増しに高くなった。

*現在の姫路城の歴史は、このときにはじまる。

   国府山(こうざん)登山

昨日12/10・月)国府山(写真上)に登ってきた。山裾の神社の境内には「妻鹿城址」の石碑(写真下)がある。神社の横に細い登り口がある。

草が倒され、登山道が造られているが、落ち葉がたまり雨の後では滑りやすいようである。20分もあれば登れる山であるが、晴れた日にお登りください。

丘であるが、途中二回も休憩をとった。休んでいると、今朝血圧と不整脈の薬を飲み忘れていたことを思いだした。

頂上には城跡の遺跡らしいものは何もないが、見晴らしがよく、姫路城がはっきりと見える。西はがけで市川に落ち込んでいる。

やはりここは戦略的な場所である。

*官兵衛の父・職隆(もとたか)の廟所は、国府山から南東約1キロの住宅の中にある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(16):秀吉播州へ①・阿弥陀の宿

2012-12-10 07:50:22 | 黒田官兵衛

秀吉は播州に向かった。天正五年(1577)十月十九日で、季節は秋に向かっていた。

秀吉の家臣が中心で、ざっと4000人にすぎなかった。

信長軍としても兵力に余裕なかったのである。

このことが、秀吉や官兵衛の播州工作を困難にした大きな原因となった。

 当時の寺光寺のあたりの風景を『播磨灘物語』からお借りしたい。

    

   秀吉、阿弥陀(高砂市阿弥陀町)に到着

011官兵衛がもっとも待ちかねているであろう、と秀吉は思った。織田家としては兵力を他に使うことが多く、播州入りはまだ早かったのだが、官兵衛がせっつくために、とりあえず秀吉が手兵をひきいて乗りこんだのである。

官兵衛は、秀吉を出迎えるべく、阿弥陀ケ宿(高砂市阿弥陀町)という在所の道路わきまで出ていた。

阿弥陀ケ宿とは、八キロばかり東へ行ったところにある。宿場である。

街道のまわりは、五分も佇んでいれば退屈するほどの平坦な野で、ところどころに岩肌の丘陵がある。阿弥陀ケ宿は宿場といっても粗末な伏屋(宿屋)が十軒ばかりある程度で、路傍に馬をつなぐ杭、馬の足を洗う溝が流れているのが、かろうじての宿場の設備といっていい。

宿場の南側に、時光寺(じこうじ)という小さい寺がある。この境内に阿弥陀堂がある。そのために、この地名が興ったという。

官兵衛は、供を五十人ばかり連れて、この寺で秀吉の軍列の来るのを待っていた。

「筑前どのの御人数に馳走せよ」

と、すでに宿場の長者に心くばりを命じてある。旅塵をおとさせるために、軒下々々に大きな水桶を出させ、また空腹しのぎのために握りめしも用意させた。

やがて、筑前どのの御人数、見えたり、と呼ばわり声があがり、官兵衛はすぐさま騎走して宿場の東のはずれまで出た。秀吉は、中軍にある。・・・

    

   時光寺(浄土宗)

以上が『播磨灘物語』(司馬遼太郎)からの引用である。先日、阿弥陀町の時光寺へ出かけた。

小説の「小さい寺」というイメージがあったが、あたりは平地で、そこだけは小高く石がけの上に聳えている寺であった。城跡のような地形である。

境内は檀家の方であろうか、落ち葉を集めて燃やしておられた。煙が薄くただよい、本堂は小説のような雰囲気のなかにあった。

ここに秀吉がいた。官兵衛がいた。・・・・

*写真:時光寺(浄土宗)の山門

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(15):一人息子(松寿丸)を人質に

2012-12-09 00:06:00 | 黒田官兵衛

   視界不透明

播磨は、織田領と毛利領の間に挟まれた。播磨の諸将は、織田方であることを鮮明にすれば毛利方から、毛利方であることを鮮明にすれば織田方から攻められることになる。

さりとて、中立は許されない。どちらにしても苦渋の選択である。

播磨の諸将が態度を変えて敵方に走るのを防ぐため、信長にしても毛利にしても、帰属してきた武将から人質をとった。小寺に対しても人質を求めた。

御着城では、老臣を集めたが結論がでなかった。

はっきりとした先の状況が読めないのである。

小寺(政職)はもう一つ、問題を抱えていた。

人質を出す場合、政職の息子ということになるが、政職は、子の縁が薄く若いころから何人もの子を死なせている。出産した母親も何人か死んだ。

いま、息子が一人元気に育っている。名前を氏職(うじもと)といったが、氏職には、軽いながら知的な障害があった。

「たとえ、氏職を人質に差出しても、織田家の心証を悪くするかもしれない」という心配があった。

   一人息子の松寿丸を人質に

Photo官兵衛は、氏職に代わり自分の息子を人質に出すことを決めた。

息子は、ひとり息子の松寿丸(しょうじゅまる)、当時十才であった。後の黒田藩主・黒田長政である。

その当時、二男はまだ生まれておらず、妻・幸圓との間のただひとりの息子であった。

官兵衛は、キリスト教徒であり、一夫一妻をまもっており、他に子どもはなかった。

官兵衛は、松寿丸をつれて安土城へ向かった。信長はこの時、安土城におり非常に喜んだと言われている。

そして、松寿丸を信長の側におかず、秀吉に預けた。このことは後に、大きな意味をもってくる。

信長は「近く、秀吉を播州に遣わそう。播磨の外の諸将からも人質をとるように」と命令した。

結局、秀吉が播磨へ入るまでに人質にしたのは「松寿丸」ひとりでだけであった。

松寿丸は、官兵衛の息子とはいえ、領主・小寺の家老の息子である。

ここにも、播磨をまとめことの難しさが覗いている。

*写真:竹中半兵衛陣屋跡(岐阜県不破郡垂井町)

黒田長政は幼少時代、竹中半兵衛の陣屋で暮らしたことがある。父黒田官兵衛が荒木村重に幽閉されていた時期に織田家の人質であった長政(松寿丸)を信長の命に逆らって竹中半兵衛がかくまっていたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官兵衛がゆく(14):英賀合戦

2012-12-08 08:36:59 | 黒田官兵衛

Eigo_008御着城主・小寺政職(こでらまさまもと)が織田方についたことは、まもなく毛利方に伝わり、天正五年(1577)五月、毛利は小寺政職を攻めるべく海路5000の軍を送り込んできた。その目標は姫路城であった。

英賀(あが・姫路市英賀)に上陸させよとした。

それを防ぐべく官兵衛が出陣したのである。これが英賀合戦である。

    

   英賀合戦

英賀には英賀城(現在の英賀神社をふくむ場所)があり、城主は三木通秋で毛利方に属していた。

毛利方が英賀を選んだのは、英賀が毛利方であり、目標の姫路城が近いこともあったが、また、この地は英賀御坊という一向宗の拠点の一つであったことを見逃すことはできない。

毛利軍は、瀬戸内海の制海権を持っており、石山本願寺を応援していた。

これに対する官兵衛方であるが御着・姫路の二城を合わせても2000ほどで、そのうえに、それぞれの城を守るために500ずつを割かなくてはならない。

毛利軍に当たれるのは1000人程度であった。毛利軍の5000とは大きな差があった。

    

   官兵衛の奇策

Eigo_017 この戦いに勝利するためには、奇策を採用せねば勝てない。その奇策とは、敵が上陸した所をねらって奇襲作戦である。

それとともに、官兵衛はあらかじめ近在の百姓たちを集め、彼らに旗・指物を持たせて、いかにも大群が後ろに控えているように見せかけた。

官兵衛は上陸して、毛利方が一息ついたところを奇襲した。

毛利軍は、背後の旗・指物を見て狼狽した。それに、官兵衛軍は、地理を熟知しており敵を追い詰めることに成功した。

余話・英賀御坊(英賀御堂)

15世紀の末本願寺の蓮如が播磨で、浄土真宗を広めるため英賀の城下町を拠点とした。代々の城主も信仰心が強く、浄土真宗の布教を助けた。

浄土真宗では播磨で最も古い播磨六寺がつくられ、次いで、英賀城下に英賀御堂(本徳寺)をはじ多くの寺が建てられ栄えた。

浄土真宗は英賀を中心にしてその周辺に広がった。この浄土真宗教団が英賀門徒(もんと)である。

英賀落城後、秀吉の命令で多くの寺は移転させられ、英賀御堂も亀山に移つり、現在は、明蓮寺だけが英賀に残っている。

*写真上:英賀神社(神社のあたりは英賀城跡)、写真下:小説『播磨灘物語』の記念碑(本殿東)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする