三木城つよし
野口合戦の前に「鳥町(三木城下の集落)」の戦いについて、書いておきたい。
この戦いについては、読み本として脚色された『播州太平記』に面白い話がある。
「加古川評定」の後、毛利側に味方した三木城に押しよせた羽柴秀吉は、鳥町(三木市鳥町)に陣を構え、三木城をせめた。
鳥町は三木城の北西にある。
三木城の下を流れる美嚢川(みのがわ)が加古川に流れ込む中間あたりを北に歩くと山にぶつかる。その山すそと崖の上に鳥町の集落がある。
三木方は、東播の支城に連絡し、はさみ討ちにする計画を進めた。連絡する方法がなかなかみつからなかった。
足軽を乞食の姿に仕立てて、敵陣を通り、加古川を高砂まで下って、高砂城(高砂市)をはじめ野口城、神吉城、志方城(いずれも加古川市)に応援を頼んだ。
天正六年(1578)四月四日夜、高砂城の兵は加古川の西の堤を進んだ。野口、志方、神吉城の兵も駈けつけ、総勢千人余の軍勢になった。
翌、四月五日戌の刻(午後八時)、一番手に櫛橋(志方軍)、二番手に長井(野口軍)、三番手に神吉(神吉軍)、軍奉行に梶原(高砂軍)と定め、明かりも灯さず、ひそかに忍び寄った。
秀吉勢は、昼間の戦いの疲れと酒に酔って熟睡しているところへ、どっと斬り込んだ。秀吉軍は、驚いて逃げまどい、総崩れになった。
そこに、三木城からも約千人が討って出たので、秀吉勢は散々の大敗であった。
以上が、『播州太平記』に描かれた「鳥町の戦い」の内容である。
事実とだいぶ異なっていると思えるが、秀吉軍が三木城の出方をけん制するため軍を送り大敗した。
秀吉は、三木城が、美嚢川(みのがわ)に張り出した台地上の要害の地にあり、攻撃が容易でない上に、各支城とのたくみな連絡に驚いた。
野口城の攻撃へ
そのため、秀吉は作戦を練り直した。
三木城を取り巻く支城を先に潰し、三木城を裸にして攻め上げようとする作戦である。
もちろん、この作戦に官兵衛もかんでいた。
秀吉:どの城からつぶすのがよいであろう。
官兵衛:野口城がてごろかと思われます・・・
こんな会話があったのかもしれない。
決まれば、秀吉の行動ははやい。三千の兵を率いて書写山を出た。
野口城へ軍をすすめた。
*写真:鳥町の公会堂と神社(この辺りで戦闘があったのか)