ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(27):別府城の戦い⑤・別府城はどこに

2012-12-18 00:14:17 | 黒田官兵衛

   

   別府城はどこに

 『播磨灘物語』から別府城の戦いのようすを見た。

 次に、別府城はどこにあったかというが問題が残る。

別府城は、秀吉の家臣により建物・土塁・堀等のすべてが壊され、その跡は不明である。

 しいて推測をしてみたい。

候補地として、播磨町の蓮華寺・別府町西町(イトーヨーカ堂の西)・宝蔵寺の東(西脇の字屋敷)そして、別府町元町の4カ所がその候補地に挙げられている。

ここでは、蓮華寺と別府西町の八幡神社を除外したい。その理由は、地形は、現在と変わっているとしても、海から少し離れている。別府城跡の候補地としては弱い。

   

    別府城は西脇にあったか?

 1522438f播磨町の『広報はりま』の「播磨ヒストリア」は、次のように説明している。

「・・・阿閇城(正式には別府の阿閇の城)は宝蔵寺東隣(加古川市別府町2丁目)にあったようです。(右図参照)

西脇は、旧東西本庄、宮西村などがある阿閇庄の村でした・・・」

この別府城、西脇説であるが、別府城がこの場所にあったとするなら、西となりの宝蔵寺のことがすこし気になる。

ここが別府城跡とするなら、記録類が焼失したにせよ何らかの伝承が宝蔵寺に残ると思うが、別府城の戦いに繋がる伝承は何も伝わっていない。

別府城は別府町元町にあったか?

少し話題を広げてみたい。江戸時代、別府から高名な俳人がでた。瀧瓢水(たきひょうすい)である。瓢水の祖先の話をしておきたい。

瀧瓢水は、貞享元年(1684)別府村に生まれた。父は、瀧新右衛門仲春といった。家は、現在の別府町の東町と元町の境にある辻堂のあたりで、約100m四方の広大な屋敷を構えていた。

 家業は、叶屋と号し、別府港を拠点とし、大坂や西国と手広く商いをしていた。

 千石船七艘を有したというから、その豪商ぶりを知ることができる。

 瀧家は、三木合戦で籠城した。落城(天正8年・1580)後は、現在の加東市滝野町で暮らしたが、瓢水の祖父の時に別府村に移った。

 別府合戦の後、別府城は取り壊され、広い跡地が残された。

 瀧家は、そこに屋敷を構え、商いを始めたと想像するのである。史料があっての話ではない。

*図:別府城跡(西脇説・「播磨ヒストリア」より)

コメント
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