ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(32):野口戦④・鶴林寺に残る「禁制」

2012-12-21 07:52:04 | 黒田官兵衛

(余話)なぜ? 鶴林寺と寺宝

Photo 余話である。

前号で、教信寺は野口城と共に闘い焼かれ、多くの寺宝が焼失したことを紹介した。

当時、東播磨の領主は、三木・別所氏の支配下にあり、多くの寺院も三木方に味方し信長・秀吉方と戦った。

そのために、それらの多くの寺は焼かれ、寺宝を失っている。

しかし、鶴林寺には多くの寺宝が残っている。

もちろん、鶴林寺はもともと太子信仰の盛んな寺であり、多くの寺宝を有する寺院であったが、加古川城(加古川市加古川町)の糟谷氏と共に鶴林寺は、秀吉方に味方した理由が大きい。

鶴林寺は、攻撃の対象にならず焼失を免れたのである。

鶴林寺に残る禁制

一枚の書状「禁制」(写真)が鶴林寺に残っている。読んでみたい。(意味のみ)

    鶴林寺のうちでは次のことを禁ずる

    軍勢が一般人に乱暴を働くこと

    陣を構えたり、放火したり、竹や木を伐採すること

    田畑を荒らすこと

    これらに違反するものは速やかに厳罰に処す

         天正六年三月二五日  筑前守(*秀吉のこと) 

秀吉は、鶴林寺の調略に成功し、鶴林寺に攻撃しないことを約束した。

この禁制の日にち(三月二五日)に注目したい。四月、三木攻は、野口城の戦闘から始まった。

結果、三木城に味方した教信寺等多くの寺院は焼かれ、宝物の多くを焼失させ、略奪にあった。

こんな経過で、鶴林寺は多くの宝物を今日に伝えている。

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