ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(40):神吉城の戦い③・神吉城の戦いに、秀吉・官兵衛がいない

2012-12-26 10:58:45 | 黒田官兵衛

「神吉城の戦い」とそれに続く「志方城の戦い」に秀吉・官兵衛の姿はない。

このあたりの情勢を『播磨灘物語』に読んでみたい。

   

    秀吉・官兵衛がいない

Photo_3 (秀吉・官兵衛は)播州はしばらく織田信忠以下の諸将にまかせ、播州と呼応している北方の反織田勢力を掃蕩するため、但馬に入った。

但馬に、竹田城という山城があったが、この城は秀吉が去年(天正五年)十月に播州に入ったとき、その余力をもって抜き、弟の小一郎秀長を守将として入れておいた。

再度、秀吉が但馬に入ったのは、この年の六月下旬である。播州において、なお神吉城攻めがさかんにおこなわれている時期だった。

但馬は小国であるため、平定は早かった。

そのあと、秀吉は秀長をして、明智光秀の担当する丹波攻略を加勢させた。・・・・この活動は信長の命令による。

さらには、「播州はしばらく織田信忠にまかせよ」というのも、信長の命令によるものだった。

播州に大軍を集中して一国をひっかきまわし、小城々々を粉砕したあと、三木城を孤城にさせ、その三木城については羽柴秀吉にまかせて他の諸隊はひきあげるというのが、信長の方式だった。(以上『播磨灘物語』より)

以上のシナリオを描いたのは信長である。

(復習)秀吉軍は雑軍

「官兵衛がゆく(35):第二次上月城の戦い

・毛利軍迫る」で、秀吉軍は「雑軍」であることを紹介した。再度復習しておきたい。

・・・・

上月城へ援軍が来た。増援部隊は、(天正六年・1578)四月二十九日滝川一益、明智光秀・丹羽長秀が、五月一日に織田信忠・信雄・信孝とそうたるメンバーが出陣した。その兵二万の援軍がウンカの如く播磨へ押しよせた。

予想ができたことであったが、問題が鮮明になった。秀吉は、彼らをまとめ切れなかった。彼の命令は、全体に伝わらなかった。秀吉の戦法をバカにする武将もあった。彼らは秀吉のライバルであった。この時期、播磨の軍勢はまさに雑軍であった。

秀吉は泣きたい気持でいた。

「このままでは、毛利軍に勝てない」と秀吉はあせった。

 信長は、信長のいない播磨での秀吉軍の実態を知った。

 そこで、秀吉・官兵衛を但馬へ移し、自分の代わりに息子の信忠を神吉・志方城攻撃の指揮官にしたのである。

 信長の長男が指揮者であると、援軍の諸将たちはしたがわざるをえなかった。

 *写真:竹田城(朝来市)・ウィキペディアより

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