ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

官兵衛がゆく(39):神吉城の戦い②・2000 vs 30000

2012-12-26 00:12:36 | 黒田官兵衛

神吉城の戦い①」の内容から何点かを検討しておきたい。

今回は、神吉城を攻めた30000の兵の数である。

   2000 vs 30000

Photo天正6年(1578627日、神吉合戦が始まった。

神吉軍は三木側から数十人の援軍があっただけで、約2000人であった。

それに対し、織田軍は30000人の圧倒的な人数で押し寄せた。

   30000の兵の意味

以前、この数字について次のようなことを書いたことがある。

・・・攻撃側の大将は、信長の長男・信忠であった。神吉側2000人に対し、信長側は30000人で神吉城に攻め寄せた。

もし、「大将が信長の長男・信忠でなかったらこんなにも多くの兵士の動員がなされたか?信長の長男に対する親ばかの気持ちがあったのではなかろうか」と。

・・・・

「神吉城兵2000」「信長軍30000」「攻める信忠は信長の長男」。この事実だけを知ると「信長の親ばか」と思われてもしかたがない。

しかし、信長は、そんなやわな感情の持ち主ではない。やはり計算上の「30000」である。

一つは毛利軍にそなえる必要があった。

我々は、歴史の結果を知っている。結果は、毛利は東播磨に大軍を送らなかったが、当時としては分からない。

また、三木城からの攻撃に備えなければならない。

三木としても、援軍を送りたかったであろうが神吉城を囲む30000の兵では簡単に援軍を送れない。

もし、神吉城に多くの援軍を送れば手薄になった三木城が攻撃される可能性が高い。

そして、当面は、三木城の味方では東播磨最大の力を誇る神吉城を圧倒的な力で押しつぶす必要があった。

神吉城が落ちれば、他の東播磨の諸城に与える影響は大きい。

その後は、三木城を徐々に料理をすればよいのである。

その数が神吉城の30000である。

*図:神吉城(『加古川市史・第二巻』より)

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