ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(467):蛸草を歩く(10):水を求めて

2011-04-15 08:28:15 |  ・稲美町加古

    広谷池・広沢池はできたが・・・

Ac957e27蛸草新村の広谷池・広沢池の築造を前号では「元禄12年ごろ」と想像しましたが、『稲美町史』では、元禄16年完成としています。

町史のその部分(p994995)を少し読んでおきます。

「・・・(草谷新村の)開発当初は畑のみであったが、元禄15(1702)には村の最も上手に溜池築造を企て、翌16(1703)春、広沢池、広谷池を築き水田2町歩を開いた。

これを村中に割りつけて稲を作り穂波が揺れたのが、この地の米の獲れた始まりである。

この年、初めて年貢米3俵を納め、その由が次のように古文書に見えている。

(次の古文書は、飛ばして読んでいただいて結構です)

 元禄十六年末初而弐町割付村中植同年九月十四日此土に作米三俵内壱俵市兵弐俵仁右衛門御年貢ハ高砂御蔵ニ御上納仕御帳初メニ付御蔵通封仕庄屋久右衛門帰ル・・・

蛸草の歴史・水を求めて

『宝暦十四年(1764)明細帳』によると、(蛸草新村)家数107軒、人数610人、田方6町5反1畝余、畑方42町3畝余とある。

このころ48町余の耕地を作り上げている。しかし、一軒当たり耕地面積は4反5畝に過ぎず、零細百姓が多かった」

なお、天保5年(1834)には2223斗2升4合の新田村となっています。

池は完成し、新田村は出発しましたが、常に水は十分ではあません。

その後の蛸草新田の歴史は、水との闘いの連続でした。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする