敗 戦
放送は、日本の敗戦を伝えました。
この放送を聞き、相野飛行場の監督をしていた軍人は割腹自殺をしました。
軍隊は解散させられ、飛行場は連合軍(GHQ)の占領下に入りました。
この時、兵舎に残っていた兵隊の使い古しの毛布などが地域住民に配られました。
物資不足の時代で、多くの人々が詰めかけたといいます。
飛行場の警備は、昼間は米軍があたり、夜間は地元の消防団が担当しました。
物資不足の時代であり、倉庫に忍び込んで盗みを働く人もいました。
盗みに入った男性一人が射殺されたそうです。
相野飛行場の戦後
翌年には農地改革により、飛行場にも開拓者が入るようになり、建造物は取り壊され米軍も立ち退きました。
この頃、戦地から引き揚げてきた人の話によると、飛行場跡地は、だだっ広い雑草の生えるにまかせた荒れ地になっていたそうです。
池も水路も埋め立てられていました。
水がありません。
この荒れ地を再び農地として利用するには、非常な努力を要したのは言うまでもありません。
飯場にいた朝鮮・韓国人は戦後10年ほど、そのまま残った人もいましたが、下草谷に家を構えて稲美町に住んだ人もいました。
*『三木(相野)飛行場に関する調査(丸尾嘉宏著)』より
◇地図・飛行場とその周辺◇
地図は、丸尾嘉宏さんの聞き取り調査により作成されたものです。
地図は拡大してご覧ください。(ダブルクリックすると拡大します)
地図中の数字は次の施設等です。
① 滑走路 ⑦飯場1
② 格納庫 ⑧飯場2
③ 整備場 ⑨境界の杭1
④ 炊事場 ⑩境界の杭2
⑤ 事務所 ⑪別所小学校(旧国民学校)
⑥ 兵舎