水がない・・・
江戸時代初期は、戦国・織豊政時代に土木・築城・鉱山技術は大きく発達しました。時代は平和な江戸時代となり、初期のころこれらの技術は農業に利用され、新田開発はさかんに行われました。
17世紀の間に、表高15万石の姫路藩では、じつに13.000石もの新田が開発されました。
その中心となった場所は、東は明石川、西は加古川、北は美の川に挟まれた印南野台地でした。
この時期、全国的に川の上流部で堰を造り、分水し、それを水利のとぼしかった台地に引いて行う方法がとられました。
この方法が加古台地にも応用されました。
草谷川から分水した加古新村(現:稲美町加古)は、その代表的な例です。
詳しくは、「(稲美町探訪)加古を歩く」をご覧ください。
しかし、蛸草新村には、上流に堰を造り、水を引く川がありません。
蛸草新村の開発・藩の援助なし!
17世紀に開発されたこの台地上の新田についてみておきます。
1660年代(明暦・万治・寛文期)に一つのピークを迎えます。
図の赤い地域がこの時期に開発された新田村です。
この時期、姫路藩は年貢を増やすために、新田開発について手厚い援助をしています。
特に、加古新村の開発では、姫路藩の熱の入れようは大変なものでした。
国岡新村についても、水の少ない高台にあったため、水がありませんでした。
が、藩は、北山所有の入ヵ池からの水を国岡新村に分けることを北山村に命令しています。
つまり、国岡新田の開発にも藩は加古新田のような財政的な援助はないものの、何かと援助を惜しみませんでした。
しかし、遅れて開発された緑色に彩色した地域の新田開発には藩の援助はありませんでした。
蛸草はこの時期に開発された新田村です。
開発には、必ず「水利権」の問題が発生します。
しかし、藩は「願があれば新田開発は許可するが、それらの問題解決に藩は関与しない」「開発に伴う問題は自分たちで解決しなさい」という姿勢でした。
蛸草新村には、先に紹介した当地域で絶大な政治力を持った小山五郎右衛門の活躍で開発は進められました。