綿作の広がり
19世紀前半の文化~天保期(1804~49)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。
姫路木綿は「姫玉」・「玉川晒(さらし)」として、江戸でも高い評価を得るようになりました。
印南野台地では、水が得にくく水田開発が困難であるため綿・大豆・タバコ等の生産が中心でした。
特に、綿作は水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物となりました。
蛸草の資料が見つからないため、近くの野谷新村・草谷新村の数字をみます。
文化12年(1815)、野谷新村においては、綿は作つけ面積の25.0%を占め、また、明治元年(1868)、草谷新村では、51.2%もの作付面積を占めていました。
水田が少なく畑作が多い、蛸草新村も綿作が盛んであったと思われます。
綿作の衰え
やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。
それに伴い、機械紡績が始まり、安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。
明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。
特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。
復習をしておきます。
・綿作は、急速に衰えました。
・印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。
天は無情でした。
江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて日照は、村人におかまいなく襲い、大飢饉をひきおこしました。
印南野台地の人々は、この旱魃の被害をまともに受けました。
飢えに苦しみました。
さらなる苦難が百姓をおそいました。
新しい税制(地租改正による大増税)です。
挿絵:綿の花・『水を求めて』(兵庫県東播県民局)より