ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(476):蛸草を歩く(19)・印南野台地の綿作②

2011-04-24 07:28:54 |  ・稲美町加古

  綿作の広がり 

354fc29f 19世紀前半の文化~天保期(180449)には、新しい商品作物として綿の栽培が急速に広がりました。

姫路木綿は「姫玉」・「玉川晒(さらし)」として、江戸でも高い評価を得るようになりました。

印南野台地では、水が得にくく水田開発が困難であるため綿・大豆・タバコ等の生産が中心でした。

特に、綿作は水のすくない印南野台地の人々にとって、欠かすことのできない商品作物となりました。

蛸草の資料が見つからないため、近くの野谷新村・草谷新村の数字をみます。

文化12年(1815)、野谷新村においては、綿は作つけ面積の25.0%を占め、また、明治元年(1868)、草谷新村では、51.2%もの作付面積を占めていました。

水田が少なく畑作が多い、蛸草新村も綿作が盛んであったと思われます。

     綿作の衰え

やがて、江戸幕府は終わり、日本は開国をします。 

それに伴い、機械紡績が始まり、安い外国綿がどっと輸入されるようになり、国内の綿生産の衰退は決定的となりました。

明治10年代になると神戸港の輸入品は綿糸・綿花・石油でした。

特に、イギリス綿糸やインド綿花の輸入が激増しています。

復習をしておきます。

・綿作は、急速に衰えました。

・印南の台地の村々は、水が少なく十分な米の収穫がありません。

天は無情でした。

江戸時代の終わりから明治のはじめにかけて日照は、村人におかまいなく襲い、大飢饉をひきおこしました。

印南野台地の人々は、この旱魃の被害をまともに受けました。

飢えに苦しみました。

さらなる苦難が百姓をおそいました。

新しい税制(地租改正による大増税)です。

挿絵:綿の花・『水を求めて』(兵庫県東播県民局)より

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