この道標について『東播磨道標をたずねて(井原卓也著)』(神戸新聞総合出版センター)で次のように説明しておられます。
道標は他の場所にあった?
大きな木のたもとにある道標。これも上部に仏が彫られている。
風化が激しく、それぞれ三面に書かれている文字は判読が難しいが、三木 高砂 西条などの字が読める。
かなり広範囲にわたって地名が書かれていることから、もともと大きな交差点などに置かれていたのではないだろうか。
以上が説明です。
著者は、他の場所に置かれていたものが、現在ここにあるのではないかと推測されています。
ここは、加古新村のターミナル
でも、この場所は、旧加古新村にとって特別な場所です。
すでに述べたように才兵衛(現:加古川市八幡町中西条)・喜平次(同:上西条)・治兵衛(同、下村)の三人は、加古新村の開発に当たりました。
そして、寛文2年(1662)に最初の集落として上新田23軒がつくられました。
特に、沢兵衛は、中西条時代の姓は「加古」で、彼は自家の姓を村の名としたほどです。
この三名の百姓は頭百姓(とうびゃくしょう)として、加古新村では絶対的な影響力を持ちました。
3名の家は、この道標のすぐ近くで、道標を中心にして、それぞれ西・北・東にあります。
それに、少し北の北新田には、大庄屋の沼田家があります。
道標のあるこの場所は、まさに、加古新村の政治・経済の中心地でした。
人はここに集まり、散っていったのです。
そこに、この道標が設置されたのではないかと推測します。
開拓者の道
「右 西条 わたし」の文字は、はっきり読めます。
先日、この道標の示す西条まで歩いてみました。江戸時代の新田~西条の道は、どの道かはっきりしなかったのですが、とにかく歩きました。
道標のある場所から真っ直ぐ北へ行くと「一号池」で道は突きあたりになりました。
一号池を西へ迂回し、加古北新田西を過ぎると下村への道は台地を一気に駆け降ります。坂を下ったところが下村です。
私(66才のおっさん)の足で、30分ぐらいで下村に着きました。
「近い」。そして、下村の向こうは西条・国包の「わたし(渡)」へと続きます。
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