しばらくは、加古地区(「いなみ野フットパス・加古の道3」と、その周辺)を歩きます。
今までにも加古地区について、「稲美町探訪(15)~(19)」で少し書いていますので、あわせご覧ください。
稲美町探訪(15):加古新村誕生①
〃 (16):加古新村誕生②・開拓の許可おりる
〃 (17):加古新村誕生③・才兵衛、加古新村と命名
〃 (18):加古新村誕生④・加古大池
〃 (19):大溝用水
〃 (19):村方万事議定書
以上の記事に付け足すことからはじめましょう。
加古八幡神社
加古大池の西にある加古八幡神社(写真上)について、神社の境内に説明がありますのでお借りします。
加古八幡神社は、加古地区の開発がはじまってから、約20年後の延宝8年(1680)に現在の鳴岡神社境内に仮の社殿を設け、開発人らが氏神として祖先から崇敬してきた上西条八幡神社を勧請して村の守護神としたことに始まります。
そして2年後の、天和2年(1682)に現在の地に本殿を造営し、天和3年(1683)に内宮を完成させました。
加古八幡宮の旧大鳥居
八幡神社の鳥居のすぐ右(東)に古い大鳥居が保存されており(写真下)、説明がありますので、その一部を引用させてもらいます。
加古八幡宮が加古の地に勧請されたのは、延宝8年のことでした。
その時は、大鳥居を造る余裕もありませんでした。
大鳥居が建立されたのは、お宮が創建されてから56年後の元文元年(1736)8月15日のことでした。
その4年前の享保17年(1732)には、西日本には「うんか」の被害があり、その翌年には多数の餓死者が続出しました。
加古新村でも多数の犠牲者が出たと想像されます
世にいう「享保の大飢饉」です。
このような時に、加古新村の200軒ばかりの村で大鳥居を建立することは大きな負担だったと思います。
苦しいからこそ、神に助けを求めたのかもしれません。
西の鳥居の柱には「播州加古郡加古新村開発人沼田喜平次、沢才兵衛、本岡治兵衛、沼田九郎太夫」の銘があります。
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