ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(179):雨の日の印南野台地①・曇川

2010-04-14 00:11:26 |  ・稲美町印南野台地

Sarah4_154 日曜日の夕方、天気予報のとおり、久しぶりに大雨となり、月曜日の朝は、まだ線を引くような強い雨が残っていました。

こんな日には外に出かけることは、ほとんどありません。

でも、月曜日(12)は昼から「大雨の印南野台地」のようす、特に雨の曇川・国安川・喜瀬川(枯川)・草谷川を見にでかけました。

印南野台地に降った雨は、南と西へ傾斜の上を流れ下っています。この程度の雨で、どんな流れになるのかを確かめたかったからです。

台風の時はともかく、大雨とはいえ昨夜からの1日の雨です。

「たいしたことはないだろう」と想像したのでしたが、どの川も川幅いっぱいに急流でした。

その報告です。

   <曇川>

Sarah4_158 入が池・長府池・満溜池に集まった水は、北山集落に沿って、まだ花びらの残る桜並木の下を、一気に白波をつくり下沢まで流れ下っています。

下沢で、国安川の流れと合流して、勢いを増し曇川本流は濁流でした。

久しぶりの本格的な雨とはいえ「一日の雨」の後です。

明治時代、九頭竜川(福井県)を見たオランダの土木技師・デレーケは、「これは滝である」といったといいますが、曇川もまさにそのような流れでした。

「曇った時だけ水があるから曇川である」と揶揄される曇川ですが、その日の曇川は違っていました。

堤防がしっかりしていない時代、長雨の続いた時には、この地域は幾度となく洪水に見舞われたことが想像されます。

やはり、稲美町は坂の町です。

曇川の流れは、坂がつくった急流です。

次に、この濁流は、どのくらいで元の水の少ない「曇川」に戻ってしまうのか知りたくなりました。

    写真上:曇川と国安川の合流地点から500mほど下流、写真下:北山の桜並木の曇川

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(178):一級河川・二級河川

2010-04-13 08:09:06 | 稲美町

  一級河川ってなに?

008 稲美商工会がこのほど出版した『元気まち ふるさと いなみ』に「・・・(稲美町の)河川は加古川の支流として町北部に一級河川の草谷川、中央部に曇川、国安川があり、南部に二級河川の喜瀬川がある。(4p)」という記述があります。

 「なぜ曇川・草谷川が一級河川で、喜瀬川はなぜ二級河川なのだろう」

こんな疑問を持たれたことはありませんか。

インターネットで調べてみました。

(インターネットより)

<質問>

かなり小規模な一級河川があるにも関わらず、地方を代表するような大きな川が二級河川であったりすることが不思議でなりません。

<回答>

 国土交通大臣が指定・管理する水系が、一級河川。都道府県知事が管理する水系が二級河川です。

 複数の県をまたいで流れる河川は、一級河川に指定されています。

また、一つの県でも重要性の高い河川は、国が管理する一級河川に指定されています。

以上の説明の「水系」に注目してください。

この指定は河川ではなく水系を指定しています。

つまり、加古川と加古川に流れ込む大小全ての川が全て一級河川です。

曇川も、草谷川も加古川に流れる河川です。

従って、一級河川で、喜瀬川は瀬戸内海に流れ込み、県が管理する川のために二級河川というわけです。

 曇川の支流の国安川も、もちろん一級河川です。

 草谷川に流れこむ小さな川があると思います。それらは全て一級河川ということになります。

 今日は、どうでもよいことですが、こだわってみたくなる話題でした。

*写真の右の川:国安川、左の川:曇川、共に一級河川

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(177):稲美町の桜⑥・桜と雌岡山と稲美町

2010-04-12 00:29:41 | 稲美町

    雌岡山は、稲美地区の水源

「水、水だ、水がくる、水がくるぞ!」

とつじょ、さけびがはしった。人の目が、多くの目が一点に意集まる。

きらめきが人々の目に突き刺さる。

人々の血で染まったような赤茶色の土。

その土に掘りこまれた溝のかなたに、光がはじけている。

「水だ、確かに水だ!」

きらめきは膨らみながら、真っ直ぐに近づいてくる。

待ちきれぬ人かげが堤防の上を走った。つられたようにつづく。

水を迎えに列が走った。

明治24411日。通水検査のための水門が開かれた。

淡河川の水が勢いよく疎水に流れ込んだ。

・・・

以上は、小説『赤い土(小野晴彦著)(神戸新聞総合出版センター)の最初の部分です。

    桜の向こうの雌岡山 

Sakura_and_flower_055 稲美地区の人々の歴史は、まさに水との闘いでした。

淡河川の水が、雌岡山そして練部屋(ねりべや)を通り、稲美地区に流れて来た時、人々の喜びは、はじけました。

淡河川疎水が、まだない時代は、稲美地区の百姓にとって雌岡山辺りから来る水だけがたよりでした。

水は、いつの時代も雌岡山の方から流れてきました。

雌岡山は、水をつくる神の宿る山でした。

人々は、朝日・夕日に輝く雌岡山に神を感じたことでしょう。

「稲美町の桜」に、雌岡山をバックにした桜を是非一枚加えたかったので、カメラを持ってドライブにでかけました。

なかなか、いいアングルが見つかりません。

やっと、加古大池の「ふれあい広場」の桜の向こうに、雌岡山をみつけました。

もう、桜は花びらを飛ばし、わずかに葉が混じり始めました。

来年は、満開の桜を背景に雌岡山を撮影しようと思います。

桜と雌岡山のコラボレーションは、稲美町を代表する風景だと思うんです。

絶好の撮影場所をご紹介ください。

    あまりにも桜が見事なため、「稲美町探訪」は桜シリーズになりましたが、次号からは、元へ帰ります。

写真は46()撮影

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(176):稲美町の桜⑤・池と桜

2010-04-11 08:58:31 | 稲美町

稲美町は「池の町」です。

桜に似合う池を捜したんですが、なかなかみつかりません。

    池には桜の木がない

Sakura_and_flower_053 当然なんですね。

「稲美町探訪(116)・土手焼き」で、次のように書きました。

・・・・(池の)土手の草は、ほっておくと、やがて草地に木が生え、やがて林へと遷移し土手が傷んでしまいます。

土手焼きをすることで、この遷移が停まります。

また、焼けた草は灰になり、新たに出る草の肥料となります。そして、害虫を焼き殺す効果もあります。

そのため、春先に、古くから草の土手を維持するために、土手焼きが行われます。

・・・・(「稲美町探訪116・土手焼き」より)

桜もきれいからといって、特別ではありません。

桜の木も、池にとって命である土手を傷めます。

そのため、基本的には池の土手には桜をはじめ樹木は植えられません。

池に桜が少ない理由です。

    稲美町は坂の町

印南の台地は、神戸市西区神出町の雌岡山あたりから西に、そして南へ低くなる傾斜をつくっています。

ほとんどの池は、この傾向を利用して造られています。

つまり、西と南に土手を造れば池になるのです。

北と東は、徐々にせりあがる台地面が土手になります。

稲美町の池にも桜のある池がわずかにありあました。

そんな池の桜は、きまって池の北か、東に咲いています。

正確には、池の土手ではありません。

写真の池は、高薗寺の前の辰巳池です。

辰巳池の南の中池、穴沢池も西と南に土手が築かれています。

少し東の野々池・南池も土手は西側だけです。

私の愛車は、1100ccの緑のマーチです。土山方面に帰ります。

帰りのドライブは来る時よりもエンジン音が少ないんです。

坂を下っています。

稲美町は、池の町、そして坂の町です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(175):稲美町の桜④・喜瀬川(枯川)の桜

2010-04-10 00:21:15 | 稲美町

「稲美町探訪(81・113)」で喜瀬川のことを書きました。再度、ここに引用します。

喜瀬川は、荒々しい牙をむいた瞬間がありました。

いまは堤防も補強され、喜瀬川大洪水の歴史は昔話となりました。

  むかし、喜瀬川に大洪水があった

天満大池の上流の長法池(ながのりいけ)が喜瀬川の源流です。

「・・・昭和20年(1945109日、喜瀬川の上流にある長法池が決壊し、上流から根こそぎ倒された松の大木が、喜瀬川いっぱいに滝のようになり天満大池に押し寄せました。

・・・天満大池から少し南にある「川池」が決壊し、続いて河原山池(天満大池の南の池)の数ヶ所で決壊が起こりました。

Sakura_and_flower_039_2 ・・・水は土山村を突き破り2.8キロ離れた旧国道にいっきに押し寄せました。

その水は、国道2号線でせき止められ、たちまち湖のような状態になり付近の民家が呑みこまれました。

この洪水で26名の人命が失われました・・・」

   今、桜が盛りです 

こんな歴史をもった喜瀬川ですが、今を盛りと咲く岸辺の桜も、そんな歴史を知らない若木のようです。

すこし風があります。

花筏をつくるほどではないが、花びらが川面に散り始めています。

きのうの喜瀬川は少し波立ち、水にうつる桜を見ることができません。

  よりきれいな流れを

Sakura_and_flower_036 稲美町の川・流(りゅう)の水は、一般的に他の地域と比べて澄んでいます。

その理由として、①台地が斜面のため水がよどまない、②工場が少ない、③下水設備が整い川に汚水が流れない、等が考えられます。

もちろん、完璧ではありません。

より水がきれいになり、川が整備され、ゲンゴロウ・ミズスマシやいっぱいの魚が泳いで、そして水遊びをする子供の声があっいたら、よりすばらしい。

「そんな喜瀬川の河岸に桜がさいていたら」と考えるとワクワクします。

 喜瀬川は何と言っても、都会の近辺の川です。都会の近くに蛍が湧き出るような川があったら、すばらしいことです。

春には、桜。

初夏には、蛍。

夏には、川遊びと子供の声。

秋には、岸辺いっぱい真っ赤な彼岸花。

そして、近辺のコスモスの花。

さて、冬は何を楽しむことにしましょう。

少し、話題が桜からはなれました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(174):稲美町の桜③・「いなみ野水辺の公園」にて

2010-04-09 08:05:36 | 稲美町

Sakura_and_flower_032 「いなみ野水辺の里公園」に来ています。

グランドに沿って桜が満開です。

   ウィークデーの桜

ウィークデーの公園は毎日違った顔があるようです。

もう学校は始まっているのか、子供の声はありません。

今日は、近くの病院の看護師さんと車椅子のお年寄りが散策しておられた。

先ほど、桜のトンネルで散策を楽しむ声がありました。

わたしは、桜並木の横でゴロンと寝転んでいました。

いろんな音が聞こえてきます。

・・・・・・

体を起こすと、少し前で車椅子のお年寄りと看護師さんが、楽しそうに話しておられる。

きっと桜の綺麗なことを話題にされているのだろう。

桜の花は、見ていると勇気が湧いてきます。

車椅子から上を眺めると、桜の向こうは青い空です。

Sakura_and_flower_030    日曜日の桜

日曜日になると、今年の桜も風に花びらを飛ばすようになるのでしょう。

そして、子供たちがその下を走りすぎていくのかもしれません。

横のグランドでサッカーをしていたら、お母さんも、子供もサッカーに夢中で桜が目に入らないかもしれません。

グランドに花びらが飛び散り、サッカーボールを追う少年が土埃と一緒に、その上を走り抜けるんです。

日曜日は、若者の声と桜が交じり合います。

   お年寄りの笑顔 

でも、ウィークデーには、その日のドラマがあるようです。

今日の「いなみ野水辺の公園」には、お年寄りの笑顔がありあました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(173):稲美町の桜②・「さくらの森公園」にて

2010-04-08 10:02:51 | 稲美町

野寺の高薗寺に来ています。

いまから「さくらの森公園」へでかけます。

高薗寺の西の道を真っ直ぐに北行くと、突き当りが「さくらの森公園」です。

「さくらの森公園」というだけに、見事な桜です。

日本人は、桜の下で酒を酌み交わし、お話を楽しむのが好きです。

   桜は農耕の開始を予兆する花

Sakura_and_flower_028 この行事は、まるで長い歴史の中でDNAに組み込まれているかのようですが、以外に新しい行事です。

花見として有名なのは豊臣秀吉の醍醐の花見ですが、花見の風習が庶民に広まったのは江戸時代で、徳川吉宗が江戸の各地に桜を植えさせて、花見をしてからだといわれています。

春の暖かい一日、桜の下で「酒を酌み交わし、おしゃべりをする」のは、何よりの楽しみであり、日ごろの骨休めになったことでしょう。

中一色(稲美町天満)の松田和薫さんは、その著書『印南野だより』(日本文学館)で桜について次のように書かれている。

「・・・桜は予兆の花であり、春の訪れと農耕の開始を指していた。

桜が咲くと村人たちが、お神酒をそなえて豊作を予兆した。

万葉の時代は、このように桜は稲の花の象徴であったので、盛りの花を愛で、古今和歌集の時代になると、散花の美に感動した歌になっている・・・」

 この春の訪れの象徴としての桜は、また農耕の開始を知らせる花であったというのです。

庶民、特に百姓にとって、花見はレクレーションであり、神に豊作を願う行事となっていたのでしょう。

きっと、直会(なおらい)の意味合いがあったのかもしれません。

<直会>

お祭のあと、お供え物を神と分かち合い飲食することで、いまで言う神様との懇親会(宴会)でした。

ウィークデイの「さくらの森公園」は、お年寄りがほとんどで、静かな陽だまりのお花見でした。

次の日曜日の「さくらの森公園」は雰囲気が一変して、神様もどこかへ退散した花見になるかもしれません。

そんな喧騒にも桜は似合う花です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(172):稲美町の桜①・北山の曇川土手の桜並木

2010-04-07 08:14:30 | 稲美町

秋、稲美町はコスモスに埋まります。

でも、今の時期はなんと言っても桜です。

いま中一色(稲美町天満)を散策していますが、少しお休みして、稲美町の桜をたずねてみることにします。

   北山の曇川土手の桜並木

Sakura_and_flower_014_2 曇川と国安川が交わる地点から、曇川を少し北へ行くと川上真楽寺(しんぎょうじ)があります。

そこは北山集落です。

真楽寺の少し北から川辺を桜並木が、約1キロばかり続いています。

昨日(46日)、この桜を見でかけました。

見事です。

桜は咲いているのですが、人影があまりありません。

ここの桜は、あまり知られていないようです。

したがって、桜見物につきものの喧騒はありません。

もっと宣伝してもよい場所です。

新聞で宣伝していただけないでしょうか・・・

もっとも、多くの人が訪れると駐車場に困るかもしれません。

車を別の場所に止めて、川辺を1キロほど歩いてみましょう。

最高の運動と花見になることは請け合いです。

夢のような世界

Sakura_and_flower_016 真楽寺から少し北に歩いたのですが、ウィーク・デイの昼時のためか、あまり人に出会いませんでした。

途中、お孫さんを連れたおじいさんに出会いました。

「この桜は、自分のために咲いている」といった気分になります。

ここは桜見物の穴場のようです。

是非、おたずねください。

次の日曜日、私も孫を連れてもう一度ここに来てみようと思っています。

そして、橋の真ん中で桜をバックに孫と私そして桜の写真をとり、大きく引き伸ばし書斎(一応、書斎としておきます)に飾ります。

その日は、花びらが、風にまって夢の世界をつくるかもしれません。

楽しみです・・・

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(171):コーヒーブレイク・「石が坪」の石が語ること

2010-04-06 08:19:04 | 稲美町

みように気になることが時々あります。

きょうの話題もその一つです。

 「石ヶ坪」の石

251 中一色天満宮の公民館の庭に細長い石(写真)があります。

「この石は、この地域の荘園の境界石だ」ということを聞きました。

眉に唾して説明を聞いたのですが、みょうに気になるんです。

きょうの「稲美町探訪」は、「間違いかも・・・」と疑いながら書いていますのでコーヒーブレイクとしておきます。

「稲美町探訪(162)・中一色」でも書きましたが「一色」について、復習をしておきます。

一色は「一色田」あるいは「一色別納」に由来するといわれています。

一色とは、荘園などにおいて、一種類の年貢だけを負担し、その他の税は免除される耕地のことです。

とすると、「この石はこの地域の荘園の境界石」とする伝承に合致するのです。

もしもそうであるなら、中一色は古くから開発がされていた土地ということになります。

  中一色は江戸時代の新田村か?

荘園は「平安時代」の専売特許ではありません。

鎌倉時代から、織田信長もしくは室町時代の滅亡までは、荘園の時代ということができます。

この時代、稲美町には「五箇荘」という荘園がありました。

時代は、ずっと下がるのですが江戸時代の古文書にも後の天満地区は五箇荘に含まれていたという記録があります。

特に、野寺、北山、中村、森安、六分一、国安、岡は確実に五家荘の範囲に含まれていました。

最近の研究によれば五箇荘は、これら7ヵ村だけではなく、さらに広い範囲を含んでいます。

ともかく公民館の庭にある細長い石は、荘園との境界か村境におかれていたものでしょうか?

そんな気がしてきました。

五箇荘、そして中一色に、ついてさらに調べる必要があるようです。

中一色は、簡単に江戸時代初期に開かれた新田村と結論づけてしまうことができないのかもしれません。

おそる、おそる書いています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(170):いなみ野フットパス(44)・畑作の多い中一色村

2010-04-05 08:11:25 |  ・いなみ野フットパス

Inamimachi4_078 『播磨地種便覧』の数字を見ましょう。

同書の前書きに「一、戸数人口は明治14年1月御調ヲ以載ク」とあるので、明治14年の数字です。

 明治新政府は、明治6年(1873)から地租改正を行い、米を納める年貢をあらため、土地の所有者から貨幣で定額の地租を取ることにしました。

地租改正では、耕地の面積をはかりなおし、新たに地価を定め、その3%を地租としました。

一般的に、新政府の収入が減らないように高めに設定されたため、農民の負担は江戸時代と比べても軽くなりませんでした。

そのため、各地で「地租改正」に反対する激しい一揆が起こり、これに押された政府は、地租を地価の2.5%(明治10年)に切り下げました。

『地種便覧』は、各村の人口、家数、田、畑の面積ならびに地租の額等を記録した本です。

  <中一色村の人口、戸数、地租>

(明治141月調べ)

  戸数:88戸

  人口:390人

田方:30町8反9畝1歩(地租:480円37銭)

畑方:38町7反2畝5歩(地租:264円28銭1厘)

中一色村は、水が少なく田よりも畑作の多い村でした。

畑では綿作がたよりでした。

その綿も、開国以来急激に増加した廉価で良質な輸入に圧迫され、綿はもはや畑作の中心になりえなくなりました。

百姓はいっそう水田を求めるようになりました。

百姓の溜息が聞こえてきそうです。

・・・水が欲しい・・・

*写真は中一色天満宮(水・収穫の神を祀る)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(169):いなみ野フットパス(43)・平木橋移転

2010-04-04 07:55:18 |  ・いなみ野フットパス

9b29a96c 万歳池からは西へは加古川市になりますが、少し足を延ばし平木橋(加古川市野口町水足)まで散策することにします。

 地図で平木橋の元あった場所(赤丸印)を確認ください。

   

平木橋解体

 淡河川・山田川からの水の一部は、やがて練部屋(ねりべや)(神戸市西区神出町)に集まり、さらに印南野台地を潤しました。

 練部屋から分かれた支流(森安支線)は、最後は凱旋池から万歳橋を経て平木橋に流れます。そして平木池を潤おす予定でした。

 しかし、平木池は、山田疎水の一番末端に位置していたため、十分な水が得られません。

 そのため、平木池は昭和24年頃には放置されたままになり、昭和41年に埋め立てられてしまいました。

 それにともない、平木橋(大正4年9月に完成)も、やがて人々から忘れ去られ雑木林の中にうずもれていました。

  突然のことです。

 この平木橋のある場所を東播南北道路が通過し、平木橋が取り壊されることになり、がぜん注目が集まりました。

 土木工学においても貴重な築造物であることがわかり、平木橋は専門誌にも紹介されました。

  平木橋移転

247_3 平木橋は、水利の乏しい地域を象徴する建造物であり、土木学会からも「近代土木遺産」に評価されました。

このため、橋の保存について各方面から要望があり、橋の取り扱いについては地元・学識経験者が協議を重ね、保存されることに決まりました。

保存場所は、約1.1キロメートル西の水足(加古川市野口町)の「前の池」への移設です。

平成21331日、移築が完了しました。

写真は、現在(移設後)の平木橋の姿です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(168):いなみ野フットパス(42)・水がきた!

2010-04-03 07:00:48 |  ・いなみ野フットパス

今日の報告も「平成12年度:東播磨ふるさと歴史学習・ウォーキング資料」を引用させていただきます。

   淡河川疎水は完成したが・・・                                   

Inamimachi4_088_2 「稲美町探訪(167)」の地図をご覧になりながらお読みください。

明治24年に淡河川からの揚水を取る工事は完成しました。

この水路を「淡河川疎水(おうごがわそすい)」といいます。

しかし、この時の疎水工事では、中一色の高台への疎水計画はありません。

この辺りは、依然として水が乏しくて水田にならない土地ばかりでした。

   水が来た

県立東播磨高校の西の凱旋池から万歳池に続く土手(写真上)をご覧ください。

 *写真は西から東の方向を撮影

淡河川疎水の工事では、この辺りの土地への用水計画はありません。

したがって、これらの土手もまだありません。

そのため、ポンプによる揚水が計画され、工事は、明治406月に完成しました。

その後、明治44年に工事が始まり、大正8年に完成した山田川疎水事業によって、中一色の高台にも淡河川と山田川から揚水が送られてくるようになりました。

それにともない、凱旋池から西へのコンクリートやレンガを用いて作った支線水路がつくられました。

しかし、凱旋池には、もともと漏水があり、水が十分にたまるということはあまりなかったようです。

昭和28年になると、この辺りでは、さく泉(井戸)を掘って地下水を汲み上げて農業用水に使うという方法が用いられるようになりました。

Inamimachi4_085  取水について、まとめます。

この地域(高地)では次の3つの方法で取水しました。

       ポンプ揚水で曇川の水を取水

       疎水路から淡河川と山田川の水を取水

       さく泉で地下水を取水

サイフォン跡

凱旋池から万歳池に真っ直ぐに高さ約2.5mの水路が伸びています。

水路の頭頂にはコンクリートによる水路も残されています。

凱旋池のすぐ西に、一色村から南へ道路が水路を横切っています。

この水路と道路の交差部分はサイフォンになっており、道の両側にサイフォン跡(写真下)を見ることができます。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(167):いなみ野フットパス(41)、凱旋池・万歳池・明治の圃場風景

2010-04-02 00:08:42 |  ・いなみ野フットパス

今、中一色周辺を歩き回っています。

中一色村は、『稲美町史』によれば、江戸時代初期(17世紀のはじめ)からの開拓地と考えられています。

「一色」という呼称から、それ以前にも、この辺りにはすでに小規模の村があったのかもしれません。

ともかく、この辺りは農業用水の確保には苦労した地域でした。

明治時代になって「淡河疎水」が完成した後も、疎水の末端であったために、用水の不足は解消されませんでした。

   二つのため池と水揚げ場

34d80c17 水不足を解消するために日露戦争後になって、ため池を築く計画ができました。

ため池により、それまでの山林や畑を水田に変えようとしました。

明治38年には万歳池、凱旋池のため池が完成しました。

「万歳池」・「凱旋池」の名称は日露戦争に勝利にちなんで付けられた名称だといわれています。

もっとも、万歳池は池の形が六角形で亀の甲羅に似ており、おめでたいので「万歳池」とつけられたという説もあります。

これらのため池を造った後も用水は十分ではありませんでした。

そのため、明治38年の12月には蒸気機関式のポンプを据えた水揚げ工事が始まりました。

曇川からの取りいれた水を、ポンプで上げ、高低差約6~7mある万歳池・凱旋池に送水する計画でした。

この工事は明治406月に完成し、ポンプで汲み上げた水は万歳池が7割、凱旋池3割という比率で分配されました。

揚水場については「稲美町探訪(109110)」でも紹介しましたので、合わせてご覧ください。

なお揚水場のあった場所は、地図(昭和428月調べ)に加筆しています。

先日、地図を片手に揚水場の跡を捜したのですが、みつかりませんでした。

近の人に確かめたのですが、どなたもご存知ありません。現在、その跡は全く残っていないそうです。

   明治時代の圃場整備

Inamimachi4_110 淡山疎水(淡河・山田川疎水)の完成と同時に、水路沿いの圃場整備事業も行われました。

凱旋池から万歳池にかけての疎水の北側の高台の農地(写真)は、現在の圃場整備事業による水田よりも小さいサイズです。

この辺りの水田は、明治時代の圃場整備事業の水田が残る貴重な水田風景となっています。

*「平成12年度:東播磨ふるさと歴史学習・ウォーキング資料」参照

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲美町探訪(166):いなみ野フットパス(40)・オマーン国王夫人

2010-04-01 07:25:41 |  ・いなみ野フットパス

 県立東播磨高校のすぐ東の高堀を調べました。横の墓地の「オマーン国王夫人」の墓碑にお参りしましょう。

 *墓碑の国名は「オーマン」となっています。

 8209e658  オマーンの歴史

オマーンはブ・サイド家が支配するイスラム教の国で、アラビア半島の東南端の一角に位置し、面積は日本の4分の3ほどの小さい国です。

ホルムズ海峡に続くオマーン湾やアラビア海に面したオマーンは、古くからインド・アフリカ東海岸諸国との貿易の要衝でした。

 オマーンは、イスラム教を中心としていますが、スンニ派やシーア派でもなくイバーディ派と呼ばれる宗教が国民の多数を占めてします。

イバーディ派は、指導者を世襲としていません。

そのことはよいことなのですが、新しい指導者の出現には、しばしば混乱と分裂を招きました。

オマーンは、衰え15071649年までポルトガルに支配されました。

オマーンが、再度統一を回復したのは1749年のアハマド・ビン・サイードによってでした。

 しかし、サイード国王の死後、オマーンは再び衰え、国王のタイムールは息子のサイードに追放され(1932)1965年にインドのボンベイで客死するまで30年余をアジア各国で過ごしています。

タイムールは一時、日本にも滞在し、そのとき日本女性との間に女の子をもうけます。ブサイマ王女です。

その後、父親を追放して第7代国王となったサイード(在位193270)は、イギリスとの通商条約を結び、イギリスを後ろ盾に父・タイムール旧勢力と対峙しました。

その後も争いは絶えませんでした。

1970年、サイード国王の息子のカブースは父を退位させ第8代国王に即位しました。

なお、父親のサイードは追放された2年後ロンドンで亡くなっています。

オマーン国王夫人・稲美町の墓地に眠る

 Inamimachi4_069 太字の部分に注目ください。

息子に追放されたタイムール国王は一時、日本にも滞在し、その時日本女性との間にブサイマ女王を出産します。

この日本女性は稲美町の方で、墓碑(写真)が県立東播磨高等学校前の墓地にあります。

数年前、ブサイマ女王が母の墓参にこられたということを聞きました。

話してくださった方は亡くなられ、当時の詳細はわかりません。

さらに、オマーン国王について知りたいのですが、詳細をお知りの方はお知らせください。

 (写真:オマーン国王夫人の墓碑)

   <墓碑>

  南面  昭和拾四年拾壱月拾日卒

      前オーマン国王夫人 清子アルサイド

                享年二十三歳

  東面  昭和拾五年五月

      タイムルFファイサム・アルサイド建之 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする