ひろかずのブログ

加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

稲美町探訪(186):いなみ野フットパス(48)、沢才兵衛・沼田家

2010-04-21 00:07:43 |  ・いなみ野フットパス

    上新田、沢才兵衛

Inamisho5_016 沢才兵衛は、もともと加古沢兵衛久次といい、中西条(現:加古川市八幡町)の庄屋でした。

26才の時、父の家系を継いで庄屋役を仰せ付けられましたが、まもなく次弟源太夫に譲り自分は、治兵衛(下村の庄屋)・喜平次(上西条の組頭)という二人の有力な協力者を得、また大庄屋の与次太夫という後援者を得て、この加古村の開発という大事業を成し遂げました。

その結果、3人と大庄屋の与太夫には、無税地が与えられ屋敷としました。

与次大夫は、開発人として、大庄屋として奉行に開発の許可を願いでましたが、3人とは共に加古新村へは出てきませんでした。

なお、才兵衛の家は、上新田の現在の沢陽三氏宅(写真上)です。

    北新田、大屋・沼田家

035 与次太夫は大庄屋として上西条に残り、その親の与次右衛門は、養子吉郎兵衛をともなって加古新村きて、先着の3人の屋敷地・上新田より北方、北新田の地を屋敷地としました。

北新田の沼田家は、加古大池のすぐ西に森で囲まれた北新田の沼田家(写真下)がそれです。

以上は『稲美町史』からお借りした内容です。

    新事実!

この3(平成22年)、沼田正毅氏は、沼田家に伝わる膨大な古文書を研究され、沼田家の歴史を『北新田沼田家 六百七十五年史』にまとめられました。

それによると『稲美町史』の内容と少し異なったところもあります。

後日新しい事実を紹介できるかもしれません。

江戸時代、大庄屋は、地域の村々の生活を左右する大切な役割を果たしていました。

稲美町、特に加古新村における沼田家の果たした役割を明確にする必要がありそうです。

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